杉本苑子 胸に棲む鬼 目 次  鴨《かも》のくる沼  傀《かい》 儡《らい》  悲歌観世音寺《ひかかんぜおんじ》  鞭《むち》を持つ女  紙の鞭《むち》  胸に棲《す》む鬼  彩絵花鳥唐櫃《さいえかちようからびつ》  鄭兄弟《ていきようだい》 鴨《かも》のくる沼     一  故郷の村に帰りついたとき、あたりはとっぷり暮れきっていた。 (やれやれ、よかったな)  宮麻呂《みやまろ》は胸をなでおろした。  村の者たちに顔を見られたくない。いずれは、わかってしまうことかもしれないが、できれば帰村した事実すら、しばらくそっと伏せておきたい心境だったのである。 (母親が、妻の加奈手《かなで》に殺されてしまった)  それだけでも大変な事件なのに、さらにその罪をあばき、官に訴え出て、嫂《あによめ》を刑死に逐《お》いやったのが妹の多万女《たまめ》だという。 (おれの留守中に、こんな恐ろしいことが起こるなんて……)  信じられない。  いまだに宮麻呂は悪夢を見ているような気持だが、知らせてくれた隣り村の若者が、まさかでたらめを言うはずはなかった。 「一時は近在近郷まで、ひっくり返るほどの騒ぎでしたよ。『宮麻呂さんが気の毒だ。帰って来たらどんなに驚くだろう。あらかじめ事の顛末《てんまつ》を耳に入れておいたほうがよくはないか』と村人たちは思案し合ったそうだけど、なにせ相模《さがみ》の足柄《あしがら》と北九州の太宰府《だざいふ》とでは、音信のしようもない。ちょうどそこへ、また国府《こくふ》からの徴用がきた。そして、このわたしが防人《さきもり》に選ばれたので、『おまえさん、通報役を引き受けてくれないか』と里長《さとおさ》にたのまれたわけです」  そう語った口ぶりに嘘《うそ》があるとは思えないし、 「ご心中、お察ししますよ。でも災難なんて、どこに転がっているかわかりませんや。われわれが家から何百里も離れた筑紫《つくし》の海っぱたにつれてこられ、こうして辛《つら》い軍役につかされているのも、災難と言えば言えますものねえ」  なぐさめてくれた顔つきにも同情が溢《あふ》れていたが、宮麻呂が受けた衝撃は他人の慰撫《いぶ》ぐらいで到底、癒《い》やされるものではなかった。気が狂わなかったのがふしぎである。  彼は妻の加奈手を愛していた。母や妹とも、肉親の絆《きずな》でしっかり結ばれていると信じきっていたのだ。 (家族たちとの団欒《だんらん》の中に、ふたたび、もどって行ける日……)  それを目標にし、生きる希望にまでして、防人の任務に耐えてきたのに、かけがえのないその家庭が日ざしの下の氷塊さながら、跡かたなく消え失せてしまったとは……。  しかも、妻の手による姑《しゆうとめ》殺し、妹の告発による嫂の逮捕とは、何という忌《い》まわしい話だろう。  宮麻呂は情けなかった。隣り村の男にも隊の同僚にも、顔向けできないほどの屈辱感にくるまれた。  惨劇は春のはじめ——半年も前に演じられたのだという。すぐにでも飛んで帰りたかったが、三年間の兵役がまだ、ひと月余り残っていた。  ようやくそれを終え、筑紫を発《た》ったのは秋|闌《た》けてからである。旅は苦しかった。官は帰路の面倒まで見てくれない。行きは引率の監督官をつけ、沿道の農民から一日ひとり当り籾《もみ》五合、塩一|勺《しやく》ほどの食料を徴収して防人たちに与えるけれども、帰りは知らぬ顔だった。  やむなく、支給されるわずかばかりの麻布などのうち、日用品の購入に使った残額をこつこつ防人たちは貯《た》めておいて、帰りの路用に当てる。そして、めいめいの故郷へ散り散りばらばらに帰って行くのだが、中には路用の不足から餓えて、中途で野垂《のた》れ死《じに》する者も出た。  宮麻呂も三百数十里の旅で、乞食のような姿になりさがった。死ぬ思いで、それでもどうやら足柄の山裾にある生まれ里まで帰れたのは、 (是《ぜ》が非《ひ》でも妹の口から、改めていま一度、事の真相を聞かねば納得《なつとく》できぬ)  とする執念に、内側から支えられた結果であった。  村人たちには逢いたくない。隣り村の男にことづけて、事件を知らせてくれた厚意には感謝するが、しばらくのあいだ、そっとしておいてほしかった。  夕闇《ゆうやみ》にまぎれて村内の道を走り抜け、集落のもっとも奥に一軒だけ、ぽつんと離れて建つ我が家の戸口に、やっとたどりついた。 「多万女、おれだ。宮麻呂だよ。いま、もどった」  小声で呼びかけながら、立てつけの悪い板戸をあけると、 「兄さんッ、待ってたわ」  多万女がとび出して来て、いきなり宮麻呂にしがみついた。 「隣り村の防人から、あらましの事は聞いたが、いったい、どうしたというのだ。あんなに母さんと仲むつまじかった加奈手が、その母さんを手にかけるなんて……」 「ひどい形《なり》ねえ兄さん、くたびれているんでしょう? とにかく洗足でもして家の中へおはいりなさい。ちょうど湯が沸いてますから……」  まめまめしく兄の着替えを手伝うあいだも、多万女は昂《たかぶ》って、 「嫂《ねえ》さんはね、母さんの看病に飽き飽きしてたのよ」  憑《つ》かれたように喋《しやべ》った。 「知っての通り、兄さんが九州へ行く前から母さんは中風《ちゆうぶう》で寝たきりだった。右手と右足がほんの少し動くだけ……下《しも》の世話から食事からいっさい、嫂さんがやってたわ」 「じつの母娘《おやこ》も及ばないこまやかな愛情で、あの二人は結ばれていた。加奈手の献身ぶりに、おれはつねづね頭をさげていたよ。母さんも嫁に頼りきっていた。それなのに……」 「惚《ほ》れた弱みで、兄さんは嫂さんを買いかぶっているのよ。今だからこそ言うけど、あの人は芯《しん》の冷たい人だわ。兄さんが防人に取られて行ってしまってからは、日ましに病人の扱いが邪慳《じやけん》になって……。母さんいつも、私の顔を見ると泣いてたくらいよ」  その朝、自分は夜なべ仕事の機《はた》織りに疲れはてて、ぐっすり眠っていたと、多万女は語りつづけた。 「正体もなく臥せっていたのに、虫の知らせかしらね、胸を押されるような息苦しさで目が醒《さ》めて、ふっと外を見ると、嫂さんが母さんを曳《ひ》きずって裏の沼岸に出て行くじゃないの。どうするつもりか、とっさには呑みこめなかった。母さんの身体を水中に突き入れたのを見てはじめて仰天《ぎようてん》して、『何をするのッ、人殺しッ』と叫びながら駆けて出たの。その時の嫂さんの、恐ろしい顔! 『見たのね多万女さん、生かしてはおけないわ』って、掴《つか》みかかって来たから、私、夢中で逃げて、村の人たちに急を知らせたのよ」     二  加奈手は捕えられ、国庁の獄につながれて厳しい取り調べを受けた。 「わたくしが姑《かあ》さまを殺すなんて、とんでもない濡《ぬ》れぎぬです。寝床が空《から》なのであちこち捜すうちに、沼に浮いている姑さまの亡骸《なきがら》を見つけました。度を失って、引きあげようとしているところへ多万女さんが現れ、わたくしの仕業《しわざ》だときめつけて村の衆を呼びに走ったのでございます」  泣きながら加奈手はそう弁明したが、 「いいえ、嘘ですッ、げんにこの耳で私は水音を聞き、この目で水中にのめり込む母の姿を見たのですもの」  けしきばんで言い立てる多万女の主張が勝った。手のかかる病人にあぐね、長期に亘《わた》る夫の不在にも苛《い》らだちをつのらせての、嫁による姑殺し……。起こっても訝《おか》しくはない犯罪である。  加奈手は犯科人《ぼんかにん》と断定され、獄内の刑場で斬首《ざんしゆ》された。 「そうか。そういうことだったのか」  宮麻呂はうなだれた。胸を絞るような吐息《といき》を突いて、眼ににじむ涙を、そっと指で払った。 「魔がさしたんだなあ加奈手は……。でももう、済んでしまったことは仕方がない。せめてねんごろにあとの供養をしよう。母さんは墓地に葬ったのか?」 「寺の坊さまに来ていただいて、経を手向けてもらいましたよ」 「加奈手の遺体は?」 「そんなもの、だれが引き取るもんですか。何を言うの兄さん。あの女《ひと》は母さんの仇《かたき》よ」 「それはそうだが……」 「刑場の死体|棄場《すてば》に投げ込まれたんでしょうよ。母さんの遺品は何もかも、形見だと思ってそのまま大切に取ってあるけど、嫂さんの持ち物は衣類から調度まで、いっさい里方《さとかた》へ叩《たた》き返してしまいました。いいでしょ?」 「うむ」  うなずきはしたものの、宮麻呂の気分は重く沈んだ。妻が哀れでならない。誠心誠意、母につかえてくれていた加奈手、無類に気だての優しかった加奈手が、悪鬼に変貌《へんぼう》するなどということがあるだろうか。いくら考えても宮麻呂には得心《とくしん》がいかないのだ。  しかも、あくる朝——。まだ霧の深いうちにこっそり家を出て、村はずれの菩提寺《ぼだいじ》へ出かけて行った宮麻呂は、母の墓にぬかずいたあと庫裏《くり》に住持を訪ねて、その口から奇妙なことを聞いた。 「埋葬のさい見たのじゃが、母者《ははじや》の右の手指に、鍋墨《なべずみ》がべっとりついておったよ」 「鍋墨?」 「さようじゃ。あれは油煙ゆえ、水を弾く。沼で溺《おぼ》れたぐらいでは取れぬものよ。墓穴におろす前に多万女さんが気づいて、布で拭いてあげておったけれどな、よごれはすっかりとは落ちなかったようじゃ」  なぜ病人の手にそんなものが附いたのか。小ぶりの土鍋で粥《かゆ》を煮て、枕もとまで運んではすこしずつ、匙《かい》に掬《すく》って加奈手は姑に食べさせていた。その鍋の底の煤《すす》を、指でこすり取ったにちがいない。でも、そんなことを何の必要があっていつのまに、母はしたのか? 「そうだ」  右手と右足はどうやら動く。言って置きたいことを、右手を使って書きのこしたのではないかと宮麻呂は気づいた。  挨拶もそこそこに寺を辞去し、家にもどると、それからは多万女の目を盗んで、毎日のように家の中を調べはじめた。  貧乏世帯である。亡母の遺品といっても錆《さ》びた鏡や欠け茶わん、歯の折れた櫛《くし》、玉の抜けた釵子《さいし》など、がらくたを詰めた木箱のほかは襤褸《ぼろ》にひとしい夜着、達者なころ着ていた質素な裳《も》や上衣《うわぎ》が三、四枚たたまれているにすぎない。  だが、最期まで頭にあてていた藺草《いぐさ》編みの枕《まくら》を手にした瞬間、 「これだな」  宮麻呂の目はかがやいた。古びて側面が破れている。そこから指を入れて中をさぐってみると、はたして麻布の切れはしが出てきた。夜具の一部を引き裂いたものらしく、鍋墨で書いた拙《つたな》い文字がたどたどしく並んでいる。 「加奈手夜《かなでよ》、阿利我等言《ありがとう》、入水志手《じゆすいして》、佐岐仁行万寸《さきにゆきます》」  判じ読むうちに、宮麻呂の咽喉《のど》から抑えようもなく嗚咽《おえつ》が洩《も》れた。不仲どころか、それは嫁姑の情愛を証《あかし》するものだったのである。  夜もろくろく眠らずにこの老人のために、加奈手は食事の世話、大小便の始末、身体拭きやら手足の按摩《あんま》やら、親身の介抱《かいほう》をしてくれた。でも疲れがつもって、近ごろめっきり痩《や》せてもきている。もうこのへんで楽をさせてやりたい。じゅうぶん私は、嫁の真心を味わった。思い残すことはいささかもないのだ。右半身で這《は》いずって行けば、沼で入水《じゆすい》できる。加奈手が長い苦労から解き放たれると思うとうれしいよ宮麻呂。どうかむつまじく添いとげておくれ……。  そんな生前の、母の声が聞こえてくるような文字の並びだった。 「何してるの兄さん、家の中なんぞで……。出てごらんなさいよ、夕焼がきれいよ」  と、このとき妹の声がした。 (おのれ、よくも無実の罪を着せて加奈手を無残な刑死に逐いやったな。魔ものはきさまだ。きさまこそ悪鬼だッ。殺してやるッ)  書置きの布を握りしめて宮麻呂は背戸へとび出した。その憤怒の滾《たぎ》りに気づかぬのか、岸辺に立って多万女は遠くを指さしていた。 「ほら、見て。沼のまん中を……。鴨《かも》よ。鴨の群れが渡って来たのよ兄さん。今年の秋もそろそろ終るのね」  無心な、なんの警戒心も持たぬ妹のうしろ姿に視線を射つけているうちに、殺してやるとまで逸《はや》った激情が少しずつ鎮静しはじめた。  代って宮麻呂の胸中に拡がったのは、言い知れぬ悲哀である。貧しいながら多万女は、母にも兄にも慈《いつく》しまれて育った。この家の一人天下だったのだ。  加奈手がとついで来てからは、しかし事情が変った。嫂に奪われてしまった母と兄……。ことにも母は嫁が気に入って、病躯の介護をすらその手にゆだねたがった。じつの娘でいながら、多万女の割り込むせきは、どこにもなくなったのである。  勝気がわざわいして、目鼻だちがととのっているのに多万女はまだ、独り身でもある。寂しさと焦り……。嫂への嫉妬《しつと》と憎悪が病母の自殺を機《しお》に爆発して、多万女を一時的な狂気に駆り立てたのだろう。 「夕日を浴びて、鴨の羽根が金色に光ってるわ。なんて美しいんでしょ。そして静かねえ」  見とれている妹の背後に佇《たたず》んだまま、宮麻呂はまったく別の思念に捉われていた。 (行商の旅に出ようか。国府の市《いち》で雑貨でも仕入れて……)  この家にはいたくない。といって、たった一人の妹を捨て切る決意もつけかねた。 (やがて、もどってくるよ多万女。気持の整理がついたら……。また一緒にくらそうな)  小石をひろって多万女は投げはじめた。波映《はえい》が砕ける。眩《まぶ》しいその、きらめきへ、宮麻呂はいつまでも黙って目をあてつづけた。 傀《かい》 儡《らい》     一  家を出たときは、いまにも降りだしそうにどんより曇って、月は赤ちゃけた大きな暈《かさ》をかぶっていた。それが、都のはずれ——蹴上《けあげ》の里あたりまでくるころにはいつのまにかすっかり晴れて、路面はふりそそぐ月光に、砂利のひと粒ひと粒がくっきり見えるほど明るくなった。  季節も秋のはじめ……。暑さは去り、寒さにはまだまだ、遠い。旅をするには絶好の気候である。 「夜通しかけて歩いてやろう。はかどるぞ、道が……」  品玉《しなだま》使いの花夜叉《はなやしや》は健脚にものをいわせて、先を急いだ。  彼は仲間の傀儡《くぐつ》師たちを追っているのであった。十日も前に一座は東国さしてくだって行ってしまった。花夜叉ひとりが遅れたのは、なじみの妓《おんな》の肌の香にがんじがらめにされて、六条の遊女宿《あそびやど》にいつづけしていたからである。 「腹を立ててるだろうなあ座頭《ざがしら》……。あちこちおれの行方を、探し廻りもしたにちがいない」  まあ、いいさ、あやまっちまえば勘弁してくれるだろうと、たかをくくったのは、品玉使いとしての腕に、花夜叉がなみなみならず自信を持っているからだ。  彼の所属する一座は、独り角力《ずもう》を得意とする男、道化役の侏儒《こびと》、獅子舞いを演じる兄弟、高足乗り、土偶《にんぎよう》あやつりなど女をまじえた十二人の仲間で構成されていた。  それぞれに演じる芸はちがうけれど、幾つもの玉を空中に投げあげ、飛蝶さながら交叉《こうさ》させながら頭で受け膝《ひざ》で受け肘《ひじ》で受けて、ただの一個も、取りはずすことのない花夜叉の曲技は、中でも評判が高く、だれにも真似のできないものだった。 「おれがいなけりゃ、一座の収入《みいり》に大きくひびくぜ」  その気負いが、花夜叉をいささか図々しくさせていたといえよう。 籠《かご》欲《ほ》しや 籠欲しや  浮き名洩らさぬ 籠欲しやな  鼻唄まじりに行くうちに、 「なんだろう、あれは……」  花夜叉の足はしぜん、止まった。月光を吸って青じろく、路上に佇《たたず》んでいるものがある。よく見ると人のようだ。しかも被衣《かつぎ》をかぶった女ではないか。 「はてな」  時刻は真夜中ちかい。昼間は賑やかな街道すじも、今は野良犬《のらいぬ》の影すら見えない。女がたった一人うろついているなど、訝《おか》しな話であった。  でも、かたわらをすり抜けて通らなければ先へ進めない。少々うす気味は悪いが、 「ままよ」  度胸をきめて花夜叉は歩き出した。女が被衣の顔を上げて、 「もし」  声をかけてきたのは、五、六歩の距離にまで近づいた瞬間である。 「もし、ちと物をおたずねしたいのですが……」  ドキッと足が竦《すく》んだ。しかしよく見るとのっぺらぼうでも、口が裂けているわけでもなかった。狐狸《こり》の誑《たぶらか》しかもしれないにしろ、外づらはごく尋常な、むしろ美しくさえ見える女である。  言葉つきも叮嚀《ていねい》だし、おとなしやかなのに、花夜叉はほっとして、 「何を訊《き》きたいのですか?」  と、そばへ寄った。 「黒谷の、菊間《きくま》ガ辻《つじ》と申すところへまいりたいのでございますが、道がわからなくて困っておりました」 「黒谷なら、ここをくだって……」  教えようとして花夜叉は詰まった。さして遠くはないにせよ、夜道ではあり、口で言っただけではおぼつかない。先々でたずねようにも人通りは皆無のはずだった。 「おねがいです」  女の声音《こわね》に、縋《すが》りつくような気配がこもった。 「ぜひ、今宵《こよい》のうちに行きつかなければならないのでございます。ご迷惑とは存じますけど、わたくしをそこまでおつれくださるわけにはまいりますまいか」 「そりゃあ無理な注文だなあ」  花夜叉は手を振った。 「ごらんの通り、わたしは東国さしてくだって行く者ですからね、洛中へ逆もどりするわけにはいきませんよ」 「そこを枉《ま》げて、おきき届けいただきたいのでございます。お礼はいたします。失礼ながらこれを進上申しましょう」  差し出したのは、掌《てのひら》に乗るほどの錦《にしき》で縫った小袋であった。 「なんですか? 中身は……」 「砂金です」 「砂金!?」 「些少《さしよう》ながら、どうぞお納めくださいまし」  目がくらんだ。こわごわ受け取って開けてみると、黄金の粒にまちがいない。これだけあれば、六条の遊女屋から、あの、なじみの妓を請け出すことも可能だと思うと、花夜叉の気持は現金に決まってしまった。 「いいですとも。こんな大枚《たいまい》なお礼をくださるなら、黒谷だろうがどこだろうが、よろこんで送って行ってさしあげますよ」  つれだって歩くと、女の衣服から甘い、冷んやりとした薫物《たきもの》の香りがただよってきて、花夜叉を夢見ごこちにさせた。 「いったい、どちらからおいでになったのですか?」  彼は問いかけた。 「遠くからですわ」 「京のおかたではないのですね?」 「ちがいます。ですから道がわからないのですよ」  そのくせ旅装束をしていない。手荷物一つ女は持っていないのである。小袖を壺折《つぼお》り、薄ものの被衣をふわっと頭上からかぶっただけの軽装だが、布地を透かして見る横顔の、左の目尻のわきに、目に立つほど大きな黒子《ほくろ》があるのに花夜叉は気づいた。 「なにをごらんになっていますの?」  女が流し目に微笑した。 「いや、なに、あんまりおきれいなので……」 「世辞をおっしゃってもわかりますわ。黒子を見ておられたのでしょう?」 「い、いや……」 「大きいので、だれもの目を惹《ひ》くのですよ。恥かしい」  ぽつりぽつり話し交《かわ》しながらくるうちに、黒谷に着いた。 「ここが菊間ガ辻です」  女の表情から優しさが消えた。急に目つきが険《けわ》しくなり、声までこわばって、 「この辻の近くに、尾張の国愛知|郡《ごおり》の、郡司の京屋敷があると聞きましたが、ご存じございませんか?」  ささやいた。 「それなら、東角《かど》のこの家ですよ。すこし先に、槐《えんじゆ》の木がそそり立っているでしょう。あの下が表門です」 「ありがとう。おかげでようやく来ることができました。では、ここでお別れします」  門のほうへ去ってゆくうしろ姿を、ぼんやり見送っていた耳のはたで、いきなり大きな音が炸裂《さくれつ》した。同じ屋敷の塀の内側である。|鐃※《にようはち》か銅鑼《どら》のようなものを、力まかせに叩《たた》いたかと思う金属音だが、それに気を取られてハッと土塀を見上げ、その目をふたたび門の方角へ転じたとき、女の全姿は煙さながら消えてしまっていた。 「どこへ行ったんだろ」  またたくまの出来ごとである。  花夜叉は門へ走り、扉を押してみた。錠がかかっているのだろう、ビクとも動かない。 「と、すると……」  邸内へ、どうやって女は入ったのか? 高い土塀を、まさか躍り越えたわけではあるまい。目をこすっていくら見回しても、月明かりの道がのびているばかりで、どこにも人ひとり隠れ込む蔭《かげ》はないのだ。  このとき不意に、男の絶叫があたりの静かさを破った。どうやら屋敷の中らしい。右往左往、駆け交す足音も聞こえはじめた。何やら騒動が起こったようだ。  花夜叉の好奇心がしきりに疼《うず》いた。 「そうだ、竹麻呂《たけまろ》に訊いてみよう」  この屋敷の雑色《ぞうしき》に、日ごろ懇意にしている男がいる。一目散《いちもくさん》に裏門へ廻り、 「おい、いるか竹麻呂さんッ」  ここも閂《かんぬき》が掛けてあったが、かまわずたたき立てると、 「だれだ、だれだ、うるさいぞ。いま当家は取り込み中だ。出直してこい」  水屋に近い雑色|溜《だ》まりから、当の竹麻呂の声でどなり返すのが聞こえた。 「おれだよ、品玉使いの花夜叉だ。その取り込みに、どうやら関《かかわ》りありそうな女を、蹴上からここまで案内して来たのでね」 「なに、女!?」  がたがた引き戸をあける音がし、裏門の扉が勢いよくひらいて、 「どうしたんだ今じぶん……。花夜叉お前、旅に出たんじゃなかったのか」  竹麻呂の髭面《ひげづら》が、ぬっと覗《のぞ》いた。     二  奇妙な女に道を尋ねられ、やむなく引き返してここまでもどって来たてんまつを、花夜叉が語り、 「ふしぎなことにほんの一瞬、目を離したすきに、女の姿は消えてしまったんだ。門があいた気配はなし、いったいこれは、どうしたことだろう」  腑《ふ》に落ちかねる顔で言うのを、半ばで遮《さえぎ》って、 「それでわかった。うう、恐ろしい」  竹麻呂はがたがた慄《ふる》え出した。 「では、あの女は……」 「生霊《いきりよう》だよ」 「げッ」 「お前は生霊と道づれになったんだ」 「ま、まさか……」 「もしやその女、左の目尻に黒子《ほくろ》がなかったか?」 「あった!」 「そうれ見ろ。やっぱり若殿の北ノ方だ。恨みが凝《こ》って仮りの姿となり、憎い夫を取り殺しに、はるばる尾張から夜天《やてん》を翔《か》けて来たに相違ない」  花夜叉もぞっと総毛《そうけ》立った。 「どうして夫を恨むのだね?」 「国許に、娶《めと》ってまもない若妻を置きざりにしたまま上洛して、大番勤めが済んだのに一向に帰国しようとしないのさ。四郎丸ぎみと言うのだがね、侍女あがりの側女《そばめ》を寵愛《ちようあい》し、父上所有のこの、控え屋敷に居坐《いすわ》って夫婦きどりでくらしておられた」 「さっき、男の絶叫が聞こえたのは……」 「若殿だよ。大声に驚いて、召使どもが駆けつけたときには空《くう》を掴《つか》んでこと切れていた。くびり殺されたようだな。細紐が首に絡《から》みついていたもの……」 「それをしたのが、北ノ方の怨霊《おんりよう》だと言うのか?」 「おれはそう思う。下手人の正体を、屋敷の奉公人どもはまだ、だれも知らないが、怪しい女の話をお前から聞かされて、おれにはピンときたよ。きまっている。国許の北ノ方の生霊がしてのけた凶行だぜ」 「生霊だなんて言うから気味がよくないんだ」  首をちぢめて、花夜叉はあたりをそっとうかがった。まだどこかに、あの女が徘徊《はいかい》しているようで怕《こわ》くてたまらない。 「霊などではなくて、生き身の北ノ方が自身、やって来たのかもしれないじゃないか。うん、そうだ、それにちがいないよ竹麻呂さん、近寄ったとき、薫物《たきもの》の匂いがした。ありゃあ本物の女だよ」 「来られるわけはない。北ノ方はみごもって、今たしか、臨月近い身重《みおも》のはずだ。長旅になど耐えられる身体じゃないよ」  そう言えば従者一人つれていなかった。旅姿でもなかった。 「やはり、では、生霊なんだな。知らぬこととはいえ、とんでもない者を、おれはこの家へ案内して来てしまったんだな」  邸内のごった返しは、いよいよひどくなった。雑色|頭《がしら》だろうか、 「おおい竹麻呂、どこにいる」  さがし廻る声もする。居ても立ってもいられない思いに花夜叉はせきたてられて、 「何も知らなかったんだ。おれに咎《とが》はないはずだぜ。じゃ、これでお別れするよ竹麻呂さん、達者でな」  そそくさ裏門から離れかけた。 「待て待て」  その腕を、竹麻呂は捉えた。 「生霊を見たのはお前だ。口まできいた生《いき》証人だからな。中へ入って当家の家司《けいし》に、納得《なつとく》ゆくように話してやってくれ」 「だめだよ。先を急ぐんだ。それでなくてさえ思いがけない騒ぎに捲《ま》き込まれて、蹴上まで行きながら引き返して来てしまったんだからね。この上ぐずついては、一座の連中に遅れるばかりだ。話ならあんたの口からしてあげたって同じだよ」  取られた腕をふりもぎって花夜叉は駆け出した。背後で竹麻呂が何か喚《わめ》いたが、耳もかさなかった。人殺しのあった場所になど長居はまっぴらな気がして、ただ、やみくもに走った。  しかしもう一度、夜通しかけて同じ道をたどる勇気は到底ない。目的を果たしたあの、霊《りよう》の女が、また蹴上の里あたりに待っていて、 「海道をくだるなら一緒に行きましょう」  などと誘うかもしれない。そんなことになったら大変だ、朝になるのを待って旅立ちの仕直しをしよう、どうせ遅れついでだと腹をくくって、六条の遊女宿に舞いもどった。 「どうしたの? 旅はとりやめ?」  なじみの妓《おんな》が、眠い目をこすりこすり起きてきて、いぶかしげな顔をしたが、 「うしろ髪を引かれてね」  適当にごまかし、その床にもぐり込んで夜の白《しら》むのを待った。  妖異《あやかし》に貰った砂金……。どうせ今ごろは、泥か砂に変じてしまったろうと袋の口をあけてみたら、中身はキラキラと、やはりまばゆく輝いている。 「正真正銘の金だ」  そうなるとまた、不安に駆《か》られる。 「この金にも、女の念力が纏《まと》いついているのではないか?」  チラと怯《おび》えがかすめたが、 「そんなことはない」  花夜叉はすぐ、思い直した。 「あの女が道に迷って困っているのを、おれは助けてやったんじゃないか。恩に着こそすれ、恨まれる筋合いなんぞ毛すじほどもないはずだ」  生きながら霊に変じ、百数十里の道程を瞬時のうちに天翔《あまか》けって、薄情な男を殺害してのけるほどの玄妙《げんみよう》な能力の所有者が、肝心の相手の住居を突きとめられず、うろうろ迷うのも可笑《おか》しな話だけれど、そのへんの矛盾に花夜叉は思い至らなかった。 「尾張の女だから、都の地理にうといのだろう」  かんたんに解釈し、あくる朝、市《いち》が開くのを待ちかねて妓《おんな》を町へつれ出した。衣料を販《ひさ》ぐ棚店《たなみせ》で、帯地をひと筋買ってやり、よろこぶ顔に口づけして、 「未練を断ち切らなきゃいつまでたっても旅には出られない。ここでさよならしよう。半年も巡業したら、また、もどってくるよ」  東国への道を踏み出した。  蹴上の集落を通るとき、 「たしか、このへんだったな」  昨夜の怪を思い出したが、秋晴れの日ざしの下、行き来する旅人が織るような往来では、恐怖など少しも感じない。それどころか、目撃のすべてが夢の中の出来ごととすら思えてくる。  しかし、夢でない証拠に、懐中にはまだ、使い残りの砂金がしっかりしまわれていた。 「結句《けつく》おれは得《とく》をした。生霊に出くわしたおかげで、ひと儲けできたってことだな」  気が浮き立ってくると、ひとりでに唇《くちびる》がむずむず動いて、稀有《けう》な昨夜の体験をだれかれかまわず喋《しやべ》りたくなる。  まさか、でも、見ず知らずの他人を相手に、むやみやたら話しかけるわけにもいかない。花夜叉は道を急いで、一日も早く傀儡《くぐつ》仲間に合流しようとした。  彼らはもともとが春日《かすが》大社に隷属する散楽《さんがく》の集団だが、法楽《ほうらく》の奉仕がないときは、大社の許可を得て旅に出た。諸国を廻って祭礼の余興に傭《やと》われ、あるいは土地の豪家《ごうけ》に招かれなどして、めいめいに得手《えて》の芸能を見せるのである。  花夜叉が先発の一行に追いついたのは、美濃《みの》の国|方県郡《かたがたのこおり》、小川の市《いち》の雑沓《ざつとう》の中であった。市日《いちび》の人出を当てにして、仲間たちは市《いち》門の脇の広場で土偶《にんぎよう》を舞わしていたのだ。 「どうもすみません、おそくなっちまって……」  頭を掻《か》き掻き花夜叉があやまると、 「いまじぶん、しゃあしゃあとよくも面《つら》が出せたものだな」  苦り切りながらも座頭《ざがしら》の彦太夫は、 「その代り、しっかり稼ぐんだぞ」  許してくれた。  花夜叉の目算にたがわず、彼の品玉の妙技が加わると加わらないとでは、纏頭《かずけもの》にしろ投げ銭にしろ収入がぐんと違うため、彦太夫も強くは叱れないのである。 「ぐずぐずと、どこに引っかかっていたんだ? 女のところか?」 「それもありますがね座頭、わたしは世にも不思議な目に遇いました。女の生霊にたのまれて、道案内をつとめたんです」 「なんだって?」  これも花夜叉の予測通り、彦太夫は目をむき、たちまち身体を乗り出してきた。 「尾張の大領の、倅《せがれ》どのがね、殺されたんです。しかも生霊になって、はるばる恨みをはらしに来たのが、倅どのにつれなくされた国許の妻女だというのだから凄《すご》いでしょう」  話が座員のすべてに行き渡るのに、半時とはかからなかった。くり返し、花夜叉は仲間の前で体験談を喋らせられ、またたくまにそれは市場じゅうにひろまった。  烈風の枯れ野に、火を放ったにひとしい。人の口から口へ、語られ伝えられて、噂《うわさ》は四、五日のうちには美濃全域に波及し、傀儡師の一座が東海道をくだって隣国との境を越えるころには、 「愛知郡《あいちごおり》の郡司の館《たち》には、妖怪が巣くうておるそうな」 「都におわす若殿が不慮の横死をとげたのも、その妖怪の仕業《しわざ》だというぞ」  尾張の住民のあいだにも、いたるところでささやき合う声が聞かれるようになった。     三  花夜叉は得意だった。生霊の噂がひろまれば、それにつれて唯一の目撃者である彼の名も喧伝される。 「どこの何者だな? その男……」 「傀儡《くぐつ》仲間の品玉使いだというぞ」  と、一座の評判まで高まり、どこへ行っても押し合いへし合いの盛況で見物が集まって来はじめたのだ。彦太夫の機嫌も当然よい。 「生霊さまさまだな」  笑いがとまらない顔で言うのを、 「花夜叉さまさまのまちがいじゃありませんか?」  訂正しても、おこらない。 「よしよし。では、お前をおがむよ。南無、福の神さま」  おどけ半分、花夜叉に向かって柏手《かしわで》を打つ。はじめのうち秘密にしていた砂金の件も、疑い深いだれかれに、 「ほんとに生霊に遇ったのかね? 若殿の落命に結びつけて、うまく話をこじつけたのではないかね?」  などと言われると、つい、むきになって、 「証拠を見せましょう。これがそれです。女に贈られた礼金ですよ」  取り出したことから、隠れもないものになってしまい、一見を望む者が行く先々で押しかけて来た。小さなものながら錦の袋は由《よし》ありげだし、わずかな量でも傀儡の身分には、砂金は似つかわしくない貴重な宝である。 「やはり話は嘘ではない。女に貰った品にちがいあるまい」  と、見ればだれもが得心《とくしん》した。  ——旅は尾張路に入ったが、さすがに敬遠して一座は愛知郡には近づかなかった。  万一、郡司から、 「わが家の嫁を誹謗《ひぼう》するとはけしからぬ。ひっ捕えて糺明《きゆうめい》するぞ」  などと脅かされては一大事だ。寄りつかぬに越したことはないと用心していたのに、ある日、当の郡司邸から使いの侍《さむらい》がやってきて、 「ぜひ、お館《たち》の庭で芸を演じて見せてほしいとの、時葉《ときは》さまのお望みじゃ。いかがであろう、来てはくれまいかな」  と言うのであった。 「時葉さまとおっしゃるのは?」 「郡司どののご正室。後添《のちぞ》えではあるけれども、お館の内を切って回しておられる女丈夫でござるよ」  引出物は米、絹、銭、何なりとも望み次第にたっぷり取らせる、酒を飲ませ、たらふく馳走《ちそう》もして帰そうとの仰せじゃと聞かされると、にわかに断るのが惜しくなった。  使者を待たせておいて、 「どうしたものだろう」  彦太夫は座員たちに相談した。 「引き受けても、剣呑《けんのん》なことはないだろうかなあ」 「ないと思いますね」  応じたのは、身丈は寸足らずながら胆《きも》の太い侏儒だった。 「わたしらはしがない傀儡だけど、春日大社に籍を置く散楽の徒ですぜ。いくら土地《ところ》の大領だからって、気ままな成敗などできはしないでしょう」 「もっともだ。おれどものうしろにはお社《やしろ》がついている。春日の社人を向こうに回すほどの気っぷしは、田舎郡司にあるはずがないな」  度胸を据えて出かけてみると、使いの口上を上まわって、もてなしは上等だった。  富裕なくらしをしているらしく、邸宅は立派だし庭も広い。池を背にした芝地にま新しい筵《むしろ》が敷きつめられ、そこが彼らの舞台である。  南面して建つ檜皮《ひわだ》ぶきの母屋《おもや》は、五間四面の寝殿造りで、簀子《すのこ》の勾欄《こうらん》ぎわにまで侍女たちだろうか、袿《うちき》すがたの女が色とりどりに居並んだ華やかさが都の上卿の邸内に遜色《そんしよく》ない。  中央、階《きざはし》の上の入り側に、几帳《きちよう》囲いのひと間をしつらえ、五、六歳の少年を膝に抱いて見物しているのが、時葉《ときは》ノ前であろう。  主人《あるじ》の郡司は、ちょうど年貢の徴収時期でもあり、公務多忙とかで国庁に出かけて留守だった。この日の采配《さいはい》は、だからいっさい時葉が振るっているらしく、道化役の滑稽《こつけい》な仕草に声を立てて笑い、女だてらに、女童《めのわらわ》に酌を取らせて大盃《おおさかずき》で呷《あお》るなど、ひどく陽気にふるまっていたが、やがて彦太夫を階の下に招き、 「いろいろ面白い芸を見せてくれてありがとう。五郎丸も大よろこびです」  持ちきれぬほどの纏頭《かずけもの》を寄こした。  五郎丸というのは脇にいる少年で、彼女の生んだ子供であった。 「わけて珍らしかったのは品玉の妙技でした。花夜叉とやらに盃をとらせましょう」  と、一献なみなみ侍女に注《つ》がせてくれたのは、生霊の取り沙汰に、時葉がかくべつ腹など立てていない証拠といえた。  先妻の子の四郎丸が、すでに妻帯するほどの年齢なのだから、郡司は五十代——ひょっとすると六十すぎた老人かもしれない。後添えとはいえ、そんな夫との釣合いから見ると時葉は若い。三十そこそことしか受け取れぬ肌の艶《つや》をしている。四郎丸の妻とは、嫁姑《よめしゆうとめ》の関係にあるが、おそらく年は、いくらも開いていないのではなかろうか。  生《な》さぬ仲の長男とも、母子《おやこ》というには近すぎる年の差から、あるいはおたがいに気まずくなって、四郎丸は京へ行ったきりもどって来ようとしないのかもしれない。 「それにしろ、冷淡なものだな。その長男が妻の生霊に取り殺されるなどという不祥事の、すぐあとに、いかに継母とはいえ悼《いた》みの色もなく、傀儡を舞わせ酒を飲んで、侍女どもと興じ合っているとはな」 「悼むどころか、あの女にすれば笑いがとまるまいよ。跡取りの嫡男が死んだ今、家督はしぜん、生みの子の小倅《こせがれ》にころがりこんでくる順序だからな」  庭燎《にわび》のかげで、花夜叉と侏儒は振舞いの酒肴をつまみながら、こそこそささやき合っていた。 「そう、すんなりとゆくもんか。若殿の北ノ方は身重だというじゃないか。もし男の子が生まれれば、これこそが郡司の直系の孫だぜ」 「北ノ方は離縁されるそうだ」 「えッ? 追い出されるのか?」 「腹の子ぐるみな。あす朝、実家《さと》から迎えの車がくるんだと……。当家の奉公人はそう言ってたよ」  したり顔な侏儒の言葉に、 「そりゃあ、ひどいや」  思わず花夜叉は、若妻の弁護に回ってしまった。 「もともと、悪いのは若殿だぜ。都で女を囲い、みごもっている妻をうっちゃって帰国しなかったんだ。恨まれて当然じゃないか。それに生霊というものは、憎い、口惜《くや》しいの一念が凝《こ》ると、当人が知らぬまに身体から脱け出して、思いをはらしに行くとか聞いたよ。つまり今度のことだって、北ノ方自身の罪とはいえないんじゃないかなあ」 「でも郡司にすれば、跡取り息子の仇《かたき》だ。生霊になって人をとり殺す嫁なんぞ、気味わるくて邸内に置いてはおけまい。あの、時葉とかいう後妻も、おそらくここを先途《せんど》とばかり夫をそそのかしたに相違ないよ」  花夜叉は胸が痛んだ。彼が雑色の竹麻呂に何も喋らなければ、北ノ方の正体はわからなかったはずだし、美濃、尾張、東海道一円にあらぬ噂がひろまったのも、根本は花夜叉の口からである。  在るようでいて形の無い�霊�が相手では、げんに人ひとり殺しても縛ったり罰したりはできない。しかし離別されて親もとへ帰っても、恐ろしがって二度とふたたび、娶《めと》る者はいず、世間も相手にはしないだろう。尼になるか、あるいは世捨て人《びと》同様にひっそりと、実家のひと隅に隠れ住んで、赤児を生み、育ててゆくほかないわけだ。 「この胸一つに納めて、黙っていればよかった!」  いまさら悔いたが、遅い。  気をつけて見たけれども、今宵の宴席にも、北ノ方はむろん、つらなってはいなかった。ぶきみな女、怕《こわ》い女——。そんな烙印《らくいん》を押されてしまっては、恥かしくて人前に出ることもできないはずである。 「きのどくに……」  せめて、ひとこと詫《わ》びたかった。  ——その夜、傀儡一座の者たちは、郡司邸の小者長屋に泊めてもらったが、まだ仲間が寝くたれているしらじら明けに、花夜叉は一人、こっそり起き出して、それとなく様子をうかがった。  人目を憚《はばか》るように、一輛《りよう》の牛車《ぎつしや》が曳《ひ》きこまれてきたのは、屋敷の使用人たちがぽつぽつ目をさましはじめたころだ。中門廊の駒寄せに、牛車は横づけされ、やがて奥から、侍女二人に支えられて若い妊婦が出て来た。車に移ろうとするその顔に目を当てて、 「ちがうッ」  花夜叉は呆気《あつけ》にとられた。  左の目尻に、たしかに大きな黒子《ほくろ》はある。でも、月夜の路上で逢《あ》った女、菊間ガ辻まで同道したあの女とは、似ても似つかぬ別人ではないか。 「しまった。ああ、はかられた!」  企らみの全貌が、はじめてはっきり呑みこめてきた。ニセ黒子を顔に描いて、ことさらそれを、花夜叉の目に印象づけはしたけれど、同じなのはそこだけで、じつはあの女は、北ノ方の替玉《かえだま》だったのだ。  そういえば花夜叉が当夜、東国へ向けて旅立つことを承知していたのは竹麻呂である。女としめし合せて蹴上の往来で待ち受けさせ、まんまと屋敷の門前まで引き返させたあげく、塀の内側で竹麻呂が銅鑼を叩き、時ならぬ怪音に一瞬、花夜叉が気をとられたすきに、あらかじめ錠のはずしてあった表門から、女はすばやく邸内に入り、門扉の掛け金を掛け直したのだろう。 「同類は、いま一人いる……」  たぶん、それは男だ。そいつがこれも、銅鑼の音を合図に寝所へ忍びこみ、四郎丸の首を絞めたにちがいない。  裏門に廻って名を呼んだとき、待ちもうけてでもいたように竹麻呂が出て来たのも、今から思えば符節の合いすぎる偶然だった。 「彼らのうしろにいて、糸を引いた張本人は、時葉ノ前だ」  中でも、その操《あやつ》る糸のまにまに踊らされた土偶は、このおれだった。傀儡《くぐつ》師の名の通り、まんまと傀儡《かいらい》に使われ、四郎丸夫婦の抹消に、ひと役買わされてしまったのだと思うと、慚愧《ざんき》に、花夜叉はいたたまれなくなった。  見送る者もなく、淡い朝の日ざしの中を、きしみながら遠ざかる牛車——。 「ゆるしてください」  言ったところで取り返しがつかぬと知りながらも、花夜叉は車の内なる女《ひと》へ、心からなつぶやきを投げ、ぺたと地べたに両手を突いた。 悲歌観世音寺《ひかかんぜおんじ》     一  疲れきっていたにもかかわらず、女奴隷《どれい》の赤須《あかす》は、その夜、まんじりともできなかった。奴婢頭《ぬひがしら》に、革の鞭《むち》で皮肉が破れるまで打ちすえられた背の痛み……。それにも増して、盗みのぬれぎぬを着せられた口惜しさが、彼女の神経をたかぶらせるのだ。  一日に一度と決められている飯も、 「罰だ」  と言い渡されて、今日はとうとう貰えなかった。胃の腑《ふ》が、揉《も》み絞られるような空腹感——。それも赤須を眠らせない。 「ああ……」  彼女は呻《うめ》いた。幾度となく寝返りを打った。あたりは鼾《いびき》と歯ぎしりの洪水《こうずい》である。くたびれはてて、横になるやいなや寝てしまうせいか、日ごろは気づかなかった汗くささ、饐《す》えた寝藁《ねわら》の匂いなど、奴婢小屋の闇《やみ》に澱《よど》む濃い異臭にも胸がむかついて、目は冴《さ》えるばかりだった。 「ああ、ああ、たまらない」  赤須は床《とこ》の上に起きあがった。  そっと小屋から脱け出したが、気づいた者はなかった。雨がくるのか、まだ春寒むの季節というのに、夜気《やき》はほんのりと暖かく、月も朧《おぼろ》に暈《かさ》をかぶっている。金堂《こんどう》の大屋根が威圧するようにそそりたち、寺域を囲む土塀は見あげるばかり高い。たとえそれが、乗り越えられるほどの低さであっても、逃亡は不可能だった。  奴隷たちは額に、焼印《やきいん》を押されている。観世音寺所有の奴婢であることがひと目で識別できるように印《しるし》は「世」の字だ。まっ赤に灼《や》けた鉄製の印《いん》を皮膚に押しつけられた瞬間、恐怖と激痛に耐えかねてだれもが失神する。  水を打ちかけられ、足蹴にされて、ようやく意識をとりもどしたあとも火傷《やけど》の痛みはなかなか消えない。五日たち、十日も経過してはじめてわずかに爛《ただ》れが乾き、苦痛も軽くなるのだが、火ぶくれを起こしたり膿《う》んだりしようものなら、その何倍もくるしまなければならなかった。中には破傷風《はしようふう》を併発し、高熱にのた打ったあげく息を引き取る奴隷さえいる。一生涯つづく地獄の責め苦を考えれば、いっそ早いうちに死んだほうが増しなのである。  赤須はしかし、不幸にも生き残って、白い額にくっきり「世」の字を刻んでいる。どこへも逃げられない。この呪《のろ》わしい印《しるし》がある限り、一目|瞭然《りようぜん》、観世音寺の女奴《めやつこ》と判る。野にも山にも隠れようがないから寺側は安心して、奴婢小屋に見張りを置かないのであった。  金堂の階《きざはし》によろめき寄って、赤須は崩れるように腰をおろした。出つくしたはずの涙が、また溢《あふ》れあがる。夫が憎い。みじめな奴隷ぐらしに堕《お》ちたのも、いやいや連れ添ってきた夫のためだ。 「なぜ、早く別れてしまわなかったか」  そればかりが、今は悔やまれる。声を立てまいとするほど嗚咽《おえつ》が洩《も》れた。泣き沈む背後から、 「これこれ、そなた、赤須とやらいう女奴《めやつこ》ではないか」  低く呼びかけられて、ギクと赤須は顔をあげた。僧が佇《た》っていた。寺院の境内だし、僧侶《そうりよ》がいて不思議はないけれども、語調の慇懃《いんぎん》さがぶきみであった。 「おう、やはり赤須だな。ちょうどよいところで逢《あ》った。そなたを小屋まで迎えにまいる途中だったのだよ」  馴《な》れ馴れしげに言うのも腑《ふ》に落ちない。じたい、僧たちと奴隷との間に交流など皆無な日常なのだ。監督も監視も、統率から制裁まで、つまり奴隷にかかわる権力のいっさいは、奴婢頭《ぬひがしら》が握ってい、僧たちは口を出さない。はじめから彼らは奴隷など、人間とは見ていないし、目のとどかぬところで、たとえどれほどの不条理やむごい私刑がおこなわれようと知らん顔をしていた。  三綱《さんごう》はじめ役僧らが目くじら立てるのは、物品としての奴婢が損《そこな》われたときだけで、怪我《けが》や病気など、寺に不利益を及ぼす結果を引き起こせば、こっぴどく叱る。しかし一人前に働かせているかぎり生殺与奪の権は奴婢頭に付与し、僧徒らはふつう奴隷たちの生活には関知しない態度をとってきたのである。  赤須はとまどい、怯《おび》えた目で相手を見た。 「忘れたかな、ほら、昼間、別当どのの供をして糸繰《いとく》り場に入っていった清範《せいはん》という者だが……」  思わず身ぶるいして、赤須はうしろへ退《しさ》った。清範がそばにいたかどうか、そんなことまでは覚えていないが、別当が女奴《めやつこ》たちの作業場へ現れたのはたしかだった。  それだけでも、かつてない珍事なのに、しかも別当が、 「そなた、名は何という?」  赤須一人に特に声をかけたのだ。どぎまぎして、とっさには返事もできなかった。 「赤須と申します」  かろうじて答えはしたものの頬《ほお》がほてり、語尾はみじめなほどわなないた。 「そうか、赤須というか」  うなずいて別当は立ち去ってしまった……たったそれだけのことなのに、奴婢頭に赤須はひどく嫉《ねた》まれた。別当といえば寺の支配者だし、一方、奴婢は牛馬にも劣る。稲二、三十|束《たば》との交換で売買される人の形をした�物�にすぎない。 「厨子《ずし》に塗る漆《うるし》のほうが、手前《てめえ》らよりよっぽど高価なんだぞ。市《いち》の相場ではいま、生《き》漆ひと樽《たる》で屈強の男奴《おやつこ》四人と替えられるんだからな」  と奴婢頭は言う。そんな奴隷風情に、別当じきじきにお声がかかるなど前代未聞だし、名を訊《き》かれて答えたのすら生意気《なまいき》だというわけである。 「寝酒に飲むつもりで私物入れの棚に隠しておいた粕酒《かすざけ》を、手前《てめえ》、盗み飲みしやがったろう」  身におぼえのない言いがかりをつけられ、絶息寸前まで鞭打たれたあげく、食事も与えられなかった今日なのだ。別当の供をしていた僧などと話しているところを見つかったら、また、どんな仕置きを受けるかわからない。  逃げ腰になりかけた赤須を制して、 「大丈夫。こわがらなくてもよい。わたしと一緒に来なさい」  清範は言った。 「ど、どこへ?」 「別当のお居間だ。そなたを呼んでこいとおっしゃっておられる。心配なことは何もない。奴婢頭には後刻、わたしから申し達しておくからな」  わけがわからなかった。でも、抗《あらが》うことはできない。女奴ごときに、何ごとであれ拒否する力はないのである。  清範に伴われて、赤須は呆然と足を運んだ。近づくことさえ禁じられている堂塔伽藍《どうとうがらん》……。広大な境内のどこをどう歩いたのか見当もつかぬうちに石廊《せきろう》を幾曲りもして、奥深い院子《いんす》の前へつれて行かれた。 「仰せに従い、赤須をつれてまいりました」  声に応じて、 「おはいり」  別当の許しが聞こえた。  重い扉を押して清範が中に踏み込み、つづいて赤須もおそるおそる房《へや》へにじり入った。灯火があかるく、香の薫りがほのかに漂っている。壁の一方に仏画が掛けられ、黒檀《こくたん》のどっしりとした卓子《たくし》と、同じく黒檀の床《ながいす》、陶製の榻《とう》が三脚ほど置かれているほか、調度らしいもののない簡素なしつらえであった。 「さあ、ここにお掛け」  榻の一つを指さされたが、赤須は憚《はばか》って、磚《せん》を敷きつめてある冷たい床《ゆか》に、じかに跪《ひざまず》こうとした。 「かまわぬ。遠慮は無用だよ赤須とやら……、向かい合って腰をおろすがよい」  どこからか清範が、湯気の立つ大ぶりの玻璃碗《はりわん》を運んできて、 「どうぞ」  赤須の目の前に置いた。甘い匂いのする蜜湯《みつゆ》ではないか。空《す》き腹がグウと鳴り、恥かしさに赤須は耳朶《みみたぶ》が熱くなった。 「そなた、腹がへっているようだな」  別当が言った。奴隷が食物に飽き満ちる日など、一日としてない。訊《き》くまでもないことを訊く別当は、それだけ下情に疎《うと》い証拠であった。 「可哀そうに……。何ぞいますこし、腹にたまるものを持ってきてやりなさい」  命じられて、次に清範が持参したのは銀盤にたっぷり盛られた煎餅《いりもち》である。小麦粉を練り、小さくちぎって胡麻の油で揚げたものだ。塩味がうっすら附いていておいしい。家庭の主婦だったころ赤須も時おり作った好物であった。  でも、容易に手が出ない。なぜ、このような扱いを受ける自分なのか? わけを聞かないかぎり気が落ちつかなかった。 「わたくしに、なにか御用でも?」 「いいや、用があって呼んだのではない。わたしが昔、ひそかにお慕い申していたさる高貴の女性——。そのお方に、そなたが瓜《うり》二つ。もうまるで、生き写しといってよいほど似ておるのでな。話がしたくなった。それだけのことなのだよ」  糸繰り場でも、また、ここへつれてこられてからも、まともには仰ぐことができなかった相手の顔を、赤須ははじめて注視した。濃い眉の下に、柔和なまなざしがほほえんでいる。がっしりしていながら体躯にいかつさがなく、見るからにきまじめな、篤実《とくじつ》な印象をまとった五十がらみの別当なのだ。     二 「そなたになら打ちあけてよいと思う。わたしが恋うていた女性は、元明と諡《おくりな》された帝《みかど》であったのだよ」  赤須は目をみはった。 「そのようなお方と、わたくしなどが似ている道理はござりませぬ」 「身分でいえば、なるほど天上に輝く星と、草蔭に息づく蛍火ほどの距《へだた》りがあろう。しかし女帝も女奴《めやつこ》も、人間の女であることに変りはないし、人間として見る以上、わたしは心中、あの方と自分との間に、身分差など露ほども意識したことはなかった」 「では、わたくしのことも……」 「奴隷とは毛頭、見ていない。だからこそ、こうして招きもし、対等に語り合ってもいるのだよ」  むろん元明帝に抱く感情を、おくびにもこれまで、別当は外に現したことはなかったと言う。まったくの片想いに終始したが、 「この、自身の気持に殉じるつもりで、病い篤《あつ》しと洩れうけたまわった日、ご平癒を念じてわたしは俗体を捨てた。剃髪《ていはつ》出家し、満誓《まんぜい》と名を改めたのだ」  奴婢たちの実態を視察する気になって、今日、ほんのかりそめに覗《のぞ》いた糸繰り場……。亡き人にそっくりの女奴《めやつこ》を、そこに見いだした瞬間、 「わたしは目を疑った。つい知らず、足がよろめくほどの衝撃を受けた。天の配剤——。そんな言葉が明滅した。出逢ったことは、あるいはこの先、二人の不幸となるかもしれない。でも、危惧《きぐ》のいっさいを押しのけて歓喜がわたしをわしづかみにしてしまった。赤須、そなたは応《こた》えてくれるか? わたしの愛に……」  いつのまにか清範の姿は消えてい、あかぎれを切らした赤須の両手は、包み込むように別当の手に握りしめられていた。 「わたしは、文武・元明・元正三代の朝廷に仕えた官吏だった。笠《かさの》朝臣麿《あそんまろ》と呼ばれ、三度まで美濃の国司に補せられた。歴代のご信任に報《むく》いるべく、わたしは懸命に任国の経営に努力した。領民の撫育《ぶいく》、農政の指導……。木曾《きそ》街道の開通など、それなりに力を尽した功をみとめられ、褒賞のご沙汰《さた》にもしばしば浴したけれど、中でも忘れられないのは和銅二年九月、田十町、穀《こく》二百|斛《こく》のご下賜に添えて、元明女帝から恩賜の御衣《ぎよい》を頂いた日の感動だ」  満誓別当はひと襲《かさね》の衣裳《きぬも》を持ち出して来た。だれが見ても高価とわかる舶載《はくさい》の錦で縫った女性用の、目も絢《あや》な礼服《らいふく》であった。 「肌身はなさず、こうして筑紫《つくし》にまで捧持《ほうじ》してきたのは、ほれ、嗅《か》いでごらん赤須、一、二度はおん手を通されたものだろうか、ほのかになお、化粧の料とおぼしいおん移り香が染みているからだ」  肩に打ちかけられて、赤須は目が眩《くら》んだ。女帝の召し物……。罰が当って、五体が即座に砕けはせぬかと恐怖したのだが、 「よく似合う」  満誓は深く、幾度もうなずきながら、 「まるで帝《みかど》がよみがえられたようだよ」  声をうるませた。  霊亀《れいき》元年、元明帝は位をおんむすめの氷高《ひだか》皇女——元正帝に譲られ、笠朝臣は引きつづき美濃・尾張の国司を兼務して国府の政務に精励した。ただ一抹の寂しさは、ながらく中央を留守にしていたため上皇の竜顔に接していないことだった。 「ところが、なんといううれしい偶然か、美濃の多度山麓《たどさんろく》から孝子が出た。酒好きの老父のために、瓢《ふくべ》に汲み取った泉の水……。それが正真《しようじん》の美酒に変じたという奇瑞《きずい》を嘉《よみ》せられ、元正新帝は年号を『養老』と改められたばかりでなく、おん母上皇ともども酒泉《しゆせん》に行幸あそばしたのだ」  ひさびさに笠朝臣は元明上皇に拝謁し、 「領国に孝子の美談がおこるのも、国守の治め方がよいからです」  との、お褒めの言葉とともに、従四位上に叙せられ、按察使《あぜち》・右大弁《うだいべん》にすら任ぜられて、上卿の列に加わることができたのである。 「折り紙つきの良吏」  この評価は、やがて元明先帝の不予《ふよ》を悲しんで遁世したあとも変らなかった。  九州の大宰府に観世音寺の創建計画が起こると、満誓は造寺使を仰せつかり、はるばる筑紫にくだって指揮のいっさいを執《と》ったばかりでなく、落慶《らつけい》後、初代の別当に補され、そのまま寺にとどまって現在に至っているのである。  ……以上が笠臣《かさのおみ》・沙弥《しやみ》満誓の、およその来歴だが、 「そなたの身の上も聞かせてほしいな。根っからの奴隷とは思えぬが……」  問われても、取りたてて語ることなど赤須にはなかった。  親の言いなりに気のすすまぬ結婚をして、夫の不行跡に泣かされた……。どこにもあるそれだけの半生にすぎない。大宰府の、器仗《きじよう》修理所に勤める木工だった夫は、意志薄弱な怠け者で、給料のほとんどを酒と小|博打《ばくち》に費やし、あげく賭場《とば》でのいさかいから酔って人を傷つけた。獄中で病死したあと、残ったのは妻の赤須と、官からの多額な借金だけだったのである。罪人の家族ということで、赤須の身柄は官没され、官奴《かんぬ》にさせられてしまった。そして官寺である観世音寺に配属され、命終るまで奴隷として働かされることになったのであった。 「いつごろのことか? それは……」 「つい去年……。冬の初めでございました」 「ではまだ、半年にもならぬな」 「はい」 「どうりで奴《やつこ》じみた卑しさが、少しもない。それだけにまた、馴《な》れぬ仕事に泣きくらす日が多かったであろう」  引き寄せられ、赤須はつよく抱き緊められた。帷帳《いちよう》で仕切られた隣室——。そこは卓子や床《ながいす》と同じ黒檀の、大きな寝台《ねだい》が置かれた寝房《しんぼう》であったが、いつ、どのようにしてつれて行かれ、絹夜具の上に横たえられたかも、赤須にはおぼえがなかった。夫との蕪雑《ぶざつ》な夜ごとからは、味わうこともできなかったこまやかな、濃密な愛撫……。打ち返す陶酔の波にうつつなく身をまかせながら、 (死んでもよい。このことが奴婢頭に知れればただではすむまい。でも、かまわぬ。打ち殺されても、もう悔いはない)  きれぎれに、そう思った。正体を失うほど、ひさしぶりにぐっすり眠りもした。満誓はその間じゅう、片方の腕枕で赤須の頭をささえ、いま一方の手でその髪を、うなじを、やさしくさすっていてくれたのである。  明け方、別れて奴婢小屋にもどるときも、 「清範がすべて呑み込んでいる。あれは心きいた若者だ。けっして悪いようにはせぬはずだから、万事、清範の指図に委《まか》せるように」  と満誓は、赤須の不安を打ち消した。  その言葉通り、院子《いんす》の外の石廊には清範が待ちうけていて、 「今夜もまた、初更《しよこう》の鐘を合図にお迎えにあがります。そのつもりでいらしてください」  来たときと同じく小屋まで赤須を案内してくれた。いつのまにか、口のきき方を改めている。別当の愛人として赤須を遇しはじめたのだろう。動物的に勘《かん》のするどい奴婢頭が、そしらぬ振りをしていたのは、おそらく清範に事情をこっそり明かされたからに相違ない。  陰惨な奴隷ぐらしに、以来、よろこびの灯《ひ》がともった。重労働も苦痛でなくなった。きまって初更の鐘が鳴ると、清範は小屋の外にやってくる。院子には飲みものや食べもの、炭火のよくおこった火炉《かろ》などが用意され、何よりは満誓の、骨もきしむばかりな一途《いちず》な抱擁《ほうよう》が待っているのだ。  赤須はしんそこ満たされた。餓えを忘れ、世の中への恨みも忘れた。生まれてはじめて女としての真の充足を与えられ、目にはいきいきと輝きが宿った。痩《や》せこけていた身体にふっくら肉が附き、頬や唇にも赤みがさして、天成の美しさが日に日に研《みが》き出されてきた。  仲間の女奴がこの変化に、気づかぬはずはなかった。それなのに彼女らも同様、知らぬ顔をしているのは、奴婢頭から釘をさされたためかもしれない。だれに何と思われようと、赤須はもはや意に介さなかった。糸を繰《く》るあいだも、ひたすら別当の言動を反芻《はんすう》しつづけ、夜の逢う瀬を待ちこがれつづけた。  敵意のこもった目に囲まれ、敬して遠ざけられる形で仲間はずれにされた赤須は、昼のあいだに強《し》いられる無言の苦痛を、一気に癒《い》やそうとするかのように、愛し合う夜のひととき、別当とのとりとめないお喋りを愉《たの》しんだ。 「そなたは歌を詠むか?」  そんなことを言われても、 「いいえ」  はじめは羞《はにか》むばかりだったが、 「あなたさまは都びと……。きっとお上手でいらっしゃいましょうね。お聞かせいただきとうぞんじますわ」  打ちとけて、甘えることも近ごろはできるようになった。 「それが、からきし下手《へた》なのだ。大伴旅人《おおとものたびと》卿が帥《そつ》として大宰府に在任しておられたころは、三日にあげず官舎で歌会が催されたものだがね。わたしの歌は席上、いつも酷評されてばかりいたよ」  歌人としても知られていた旅人は、九州に赴任してまもなく妻女に死なれた。家持《やかもち》ら子息たちはまだ、成人していない。 「そこで家政をとりしきるために、妹の大伴坂上《おおとものさかのうえの》郎女《いらつめ》どのをはるばる奈良の私宅から呼びくだしたのだが、この女《ひと》がまた、名だたる歌詠みだし、目の寄る所に玉というか、帥邸に出入りする官吏たちも、たとえば筑前守の山上|憶良《おくら》どのはじめそろってみなはじめそろってみな、歌がうまかったな」 「そういえばわたくし、亡夫から噂《うわさ》を聞きましたわ。大伴の帥どのは、たいそうな酒豪でいらしたそうですね」 「斗酒《としゆ》を辞さなかった。『なかなかに人とあらずば酒|壺《つぼ》に、成りにてしかも酒に染《し》みなむ』……そんな作をものすお方だったよ」 「筑前の国司は?」 「いささか悲憤慷慨癖《ひふんこうがいへき》の強い奇人だけれど、家庭人としては子煩悩《こぼんのう》な愛妻家でね、宴席がだらだらながびいたりすると、さっさと先に帰ってしまう。『憶良らは、今は罷《まか》らむ、子泣くらむ、そを負《お》う母も吾《あ》を待つらむぞ』などと、きわどくのろけながらね」  思わず赤須は笑ってしまった。笑い声にさえ、このごろは艶《つや》が滲《にじ》んできた。女奴隷の境遇におとされながら、かえってそれゆえに掴めた仕合せ……。しみじみ満誓とのめぐり逢いを感謝したい気持だった。     三  その旅人も、憶良もが、しかし任を解かれて都へもどって以後、満誓の身辺はにわかに淋しくなった。  大宰府じたい、遠《とお》の朝廷《みかど》と呼ばれ、平城京にまさる殷賑《いんしん》を誇る国際都市である。中央の歌壇に対峙《たいじ》して、いわば筑紫歌壇を形成していたともいってよい旅人や憶良や坂上郎女……。彼らが去ってしまっては、文芸的な気運も末つぼまりにならざるをえない。 「だが、友人たちを失った代りに、わたしはまたとない宝を手に入れた。そなただよ赤須、そなたとこうして睦《むつ》み合えるかぎり、わたしには何の不足もないなあ」  女犯《によぼん》への呵責《かしやく》に触れないのは、それを感じないためか。もろともに地獄へ堕ちる覚悟を固めているからだろうか。  もともと満誓の出家は、女帝への慕情に発したものだ。とすれば、恋人に生き写しの赤須を得て、僧形のままその生き身にのめり込んだとしても、水が低地に流れるに似て、満誓自身にすればごく自然な、心情の傾きであったろう。  破綻《はたん》は、だが、思わぬ早さで忍び寄って来た。赤須がみごもったのである。身体の変調に気づき、 「あのかたの、お胤《たね》を宿した」  と知ったとき、赤須が戦慄《せんりつ》したのは、 「父が良民であっても、女奴隷に生ませた子はすべて母に属せしめ、奴隷となす」  との、養老令の規定を思い出したからであった。  満誓に告げると、 「そうか、懐妊したか」  さすがに一瞬、眉《まゆ》を曇らせた。もと官吏だっただけに法の非情さ、執行に当っての官の容赦《ようしや》のなさを満誓は熟知している。 「しかし抜け穴があるのもまた、法の網の特色だ。わたしにまかせておくれ赤須、二人の仲にできた愛児を、むざむざ奴溜《やつこだ》まりになど追いやるものか」  たのもしい保証である。官寺の別当ならば、また当然、それくらいの方策は講じられてよいはずだった。 「身体をいとえよ。おなかの嬰児《やや》を無事に生むことだけ考えておればよい。無理な仕事はするな」  とも、くり返し念を押すけれども、寺中《じちゆう》での身分が高すぎ、奴婢どもの日常ともかけ離れすぎて、具体的にはどうしたら赤須とその胎内の子の安全がはかれるのか満誓には見当がつけかねる。やはりここでも、 「わたくしがうまく処理いたしましょう」  あいだに立って何かと骨を折ったのは清範であった。  仲間の反感を恐れて分娩ぎりぎりまで赤須は糸繰り場に出たけれども、女奴《めやつこ》の妊娠はかくべつ異とするに当らない。寝小屋での性は乱れきっている。相手はほとんどの場合、同じ囲いに住む男奴隷だが、そのうちのだれが赤児の父なのか、わからずに生む女奴すらすくなくなかった。  赤須の腹部が目立ちはじめても、かげではこそこそ別当との仲を取り沙汰し合いながら、懐胎そのものに目くじら立てる者はいなかったし、奴婢頭は相変らず、そしらぬふりを装っていた。清範に、よほどたっぷり鼻ぐすりをかがされているのだろう。  いよいよとなったとき、赤須がつれて行かれたのは寺の近くの民家であった。寺領の一部を耕《たがや》して年貢《ねんぐ》を納めている小作人だという。この家の奥の間で、赤須は家の女たちに介抱されながら身二つになった。生まれたのは母親似の、愛くるしい女児だった。  いつまでも添い寝してやりたい。我が手で育てつづけたいが、表向き、どこまでも赤須の身分は観世音寺の女奴である。子供を奴婢小屋につれてもどれば、その日からその子は奴隷にされてしまうのだ。仲間の女奴が生んだ子供たち……。母の目の前で、額に「世」の字の焼印が押されるむごたらしさを、どうして満誓との愛の結晶に許すことができようか。 「ですから、令《りよう》の掟《おきて》を逃がれるためには親子の名乗りをせず、当家の子供として育ててもらうほかありません。養育費は別当どのが支払われます。おつらいでしょうが赤須さま、お身体がもとにもどり次第、あなたはお一人で寺へお帰りください」  その代り時おりこっそり、清範は子を抱いて見せに来ると言った。やむをえない。子供の運命を救うためには生き別れするほか手段はないのであった。  赤須はまた、奴隷ぐらしにもどり、昼間は仕事場、夜になると満誓の院子に通い出した。筑紫綿は、調《ちよう》の貢物《こうぶつ》にも指定されているこの地方の特産品だが、張って耐えがたい乳房を、糸繰り車のかげにしゃがんで絞るとき、さすがに悲しさに胸が痛んだ。  清範は約束をたがえず、三月《みつき》に一度ぐらいの割合いで院子に子供をつれてきた。 「おお、おお、また一段と大きくなって……」 「日ましにそなたに似てくるではないか赤須、なんという縹緻《きりよう》よしの子であろう」  満誓も赤須もが、そのたびに奪い合いで抱きしめ、飽くことなく頬ずりし合った。 「珠女《たまめ》」という名を、娘に与えたのは満誓である。二人の中の珠玉……。美しいが上にも美しく成長してほしいとの、父母の願いをこめた名だった。  満誓の、突然の死によって、しかし状況は一変した。忠実な侍者《じしや》の仮面——。清範がそれをかなぐり捨てて、打算にこりかたまった冷酷な本性をむき出しにしたのである。  卒中の発作《ほつさ》に襲われて、仁王長講《にんのうちようこう》の講筵《こうえん》さなか満誓は倒れ、手当の甲斐もなく七日後に永眠したのだが、一ッとき、意識がもどったさい赤須を枕もとに呼び迎えて、 「わたしの拙《つたな》い歌を披露しよう」  いつもの、あたたかな微笑でささやいた。 「そなたと、はじめて逢ったときの実感だ。『ぬばたまの、黒髪変り白髪《しらけ》ても、痛き恋には会う時ありけり』……。旅人どのや憶良どのに聞かせたら、こっぴどくけなされるであろうけれど、中年すぎて、はじめて真実の恋を得たのだから仕方がない。帝王の尊位に在《おわ》した女性と、女奴の面輪《おもわ》を重ね合せて愛撫しながら、違和を少しも感じなかったのも、こうなる前世からの宿業《しゆくごう》だったのだろうね」  衆僧環視のただ中で、赤須の手指《てゆび》に、指を絡《から》めての述懐である。秘めごとは、陽光の下にさらけ出されたも同然となった。  満誓の葬儀が終り、新別当が着任してまもなく、清範は預けてあった民家から珠女をつれてもどり、 「この幼女は、満誓沙弥が女奴隷赤須と通じて生ませた子供です。寺にもどし、寺奴《じぬ》とすべきが至当ではありますまいか」  三綱《さんごう》に訴えたのだ。ひところ低廉だった奴隷の値段が、人不足で急騰していた。旧別当に腹心扱いされていた不利を払拭しようとの保身から、清範は珠女の一生を売り渡したのである。 「ちがうッ、ちがいますッ。わたしはみごもったことなどない。この子は別当さまのお胤でも、ましてわたしの子でもありませんッ」  赤須の、死にもの狂いの抗弁も虚《むな》しかった。奴婢頭はじめ、当時、嫉ましさをこらえながら傍観していた仲間の女奴や男奴たちが、いっせいに密通の事実を言い立てて腹いせの快味をむさぼったのだ。  かぞえ年三歳の愛ざかりに達して、生き人形にも見まほしい珠女……。その華奢《きやしや》な手足を荒くれた男奴どもが寄ってたかって抑えつけ、透《す》きとおるばかり白い額に灼熱の印《いん》を押しつけた刹那《せつな》、たまぎる悲鳴の底に赤須は昏倒《こんとう》した。  首をくくって、彼女がみずからの命を絶ったのは、息をふき返した直後であった。骨も固まらぬ幼時から酷使され、やがて男奴たちに慰《なぐさ》まれて、ボロ布のようにすり切れてゆくであろう娘の姿を、見守りつづける気力が、赤須にはなかったにちがいない。 『三代実録』の貞観《じようがん》八年三月条に、観世音寺の奴僕《ぬぼく》三人が、 「自分らを解放していただきたい」  と官に訴えて、許可された記録が載せられている。訴状によると、彼らは笠臣《かさのおみ》満誓の五代目の子孫に当る。満誓が女奴赤須と通じて子を儲けた結果、その子はもとより五代に亘《わた》って子孫らは寺の奴隷でありつづけたが、延暦《えんりやく》八年五月、新たに施行された格《きやく》によって、 「良、賤に通じて生みたる子は、良に附すべし」  と法規が改正された。われわれは、まさにその例に該当する者であると信ずる、というのが申請の内容である。満誓の死、赤須の死からかぞえておよそ百三十年のちに、彼らの血脈は、やっと人間としての自由をとりもどしたのであった。 鞭《むち》を持つ女     一  五歳になったばかりの珠児《たまこ》が、強欲《ごうよく》と評判の高い加々女《かがめ》の手もとに引き取られると決まったとき、隣家の若夫婦はもとより近所中が、 「やれやれ、哀れな話だなあ」 「養女にするなんて嘘《うそ》ですよ。あの女は人買いだそうですもの、いずれ珠ちゃんも売りとばされるのではないでしょうか」  涙ながら噂《うわさ》し合った。  加々女は五十がらみ……。連年の凶作と、疫病《えきびよう》の流行で、だれもがみすぼらしく痩《や》せ細っていた当時ですら美食に飽き満ちた権門勢家の夫人ででもあるかのように、でくでく肥えふとり、やたら口汚なく奉公人を罵《ののし》りながら女手ひとつで商売を切りもりしていたやり手なのである。  人買いと、世間では言う。まさしくその通りで、加々女の仕事は奴婢《ぬひ》の周旋であった。いっぱし女だてらに、奴隷《どれい》市場では幅《はば》をきかせている。 「だから、おそらく珠ちゃんも……」  と、若夫婦が危惧《きぐ》したのは当然だが、さいわいこの予測ははずれた。  酷薄非情の塊りみたいに言われていた日ごろに似げなく、加々女は珠児を可愛がり、約束通り養女扱いして、 「やっと目がねにかなった跡継ぎにめぐまれたよ」  誇り顔さえするほどになったのだ。  じじつ、七ツ八ツ九ツと年を重ねるにつれて珠児の美しさ、悧発《りはつ》さは、鉱石に混じる金の粒のように鮮やかに洗い出されてきた。子供ばなれしたキリッと引き緊った目鼻だちは、いささか驕慢《きようまん》だし、ととのいすぎて冷たくもあるが、珠児の縹緻《きりよう》を褒めない者はいない。  もともと、そこらの下民の子ではないのである。けっして豪家《ごうけ》でも、富裕な家の生まれでもないけれど、父親は一応、近衛府《このえふ》に勤務して、将曹《しようそう》にまで昇進していた下級の官吏だし、母も宮中の織部司《おりべつかさ》に所属する女官の一人であった。  素性《すじよう》はけっして悪くない。いとしがられて育った一人ッ子だから、尋常にいけば珠児をとりまく環境は穏やかな、ごく平坦なものであったはずだが、運命の指針が中途で大きくねじ曲った。疫病に感染し、両親があいついで亡くなってしまったのである。  珠児だけの不幸ではない。天平九年、北九州から東上してきた天然|痘《とう》の流行はすさまじく、貴族高官の中ですらおびただしい死者が出て、行政が一時、中断したほどだった。  巷《ちまた》の酸鼻《さんび》は、まして目もあてられなかった。平城京内の大路小路は病者の呻《うめ》き、死者の骸《むくろ》で埋まった。珠児の父や母も、この悪疫の犠牲となったのである。  地方に親戚はいても、所在や名が幼女にははっきりわからない。孤老と孤児は畿内に溢《あふ》れ、収容所はどこも満員だという。  それでも隣人はじめ、同じ役宅に住む人々が、 「悲田院《ひでんいん》はどうでしょう」 「あすこはとっくに一杯だそうだ。秀照尼さまの経営する竜樹園《りようじゆおん》か、行基大徳《ぎようきだいとく》が開かれた大狛《おおこま》の施院《せいん》なら、まだ入る余地があるかもしれないな」  官立、私立の施設を駆けずり廻ってくれていたやさき、斃獣にむらがる餓狼《がろう》さながらな嗅覚《きゆうかく》を駆使して加々女が現れ、 「わたしの娘分にしてやりますよ」  恩着せがましい強引さで、ひっ拐《さら》うように珠児をつれて行ってしまったのだ。  子供の将来を危ぶみはしたものの、だれしも自分の身一つを生かすのに精魂を疲らしていたさなかだから、 「ご安心なさい。大事にしてやりますさ。こんな子柄《こがら》の良い子はめったにいるもんじゃない。惚《ほ》れこんだからこそ引き取ってやる気になったんだからね」  たのもしげに請け合う加々女の言葉を、ひとまず信じるほかなかったのである。  銭勘定《ぜにかんじよう》にこまかく、無類の欲ばりとも折り紙つけられている加々女が、だから感心に幼女を手許に置きつづけるのを見て、 「よほど珠ちゃんが気に入ったのですね」 「よかったなあ」  隣家の若夫婦は、ことにも胸をなでおろした。妻は小奈伎《こなぎ》、夫は佐伯《さえきの》真依《まより》といい、珠児の父が存命していたころ目をかけてやっていた部下の一人だった。  ——十六、七の娘ざかりを迎えると、珠児の美貌《びぼう》はいっそう輝きだした。  六十すぎて、ますます醜く肥りはじめた加々女とは、対照の妙が極端すぎる。  爪《つま》はずれがほっそりとし、背も、加々女の短躯を見おろすばかり、すんなり伸びて、高々と掻《か》き上げた髪の生えぎわなど匂い立ちそうに煙って見える。  切れながの、形のよい目が、ほんのわずか眼尻《まなじり》にかけて吊《つ》り上り気味なので、流眄《ながしめ》に睨《にら》まれると表情ぜんたいに言うに言えない蠱惑《こわく》的な魅力と、背すじをゾクッとさせるような凄《すご》みが添った。  無口だし、この年ごろにしては珍らしくあまり笑わない。童女のころから近くの寺院にかよい、学侶《がくりよ》について読み書きを習った点も、もの静かな挙措とともに威となって、珠児の印象を実際の年齢より老成させていた。  近ごろは、したがって召使や奴婢たちも加々女の怒号にまして、珠児の存在を憚《はばか》るようになった。稼業にも、珠児は口を出しはじめ、その辣腕《らつわん》ぶりは、加々女以上とも恐れられているが、気性に秘められた烈《はげ》しさは、あるいは天性のものかもしれない。  もっとも、諺《ことわざ》にも「氏より育ち」などと言う。養母の日常を見ならって、珠児の守銭奴《しゆせんど》ぶりは徹底していた。外形は雪と墨《すみ》ほども違うのに、物欲の強さばかりは実の親子といってよいくらい加々女そっくりに珠児は成長したのである。たとえば、 「牛や馬を牧《まき》で飼うように、男奴《おやつこ》と女奴《めやつこ》を囲いの中で飼ってはどうかしらね母さん」  奇想天外な、そんな着想を珠児は口にしたりする。 「仔馬や仔牛を増やすように、奴《やつこ》同士を番《つが》わせて子供を生ませるのよ」  奴隷の数は、おおむね不足していた。  宮廷や大寺大社、中央政庁、国々の官衙《かんが》などは、官奴《かんど》を相当数かかえているが、皇族貴族の屋敷、地方の豪族、大百姓あたりのさかんな求めに応じるとなると、私奴《しど》として買われてゆく人間の数はつねにたりない。  持つ上に、さらに荒地を開墾させ、私有化しようとたくらむ地主たちにすれば、人手はいくらあっても余るということはなかったし、加々女の商売も、だからこそ成り立つわけなのだが、 「だめだよ、牛馬ならともかく、奴《やつこ》どもは飼って増やすわけにいかないんだよ」  さすがに年の功だろうか、一見、賢《さか》しげな養女の提案を、加々女はニベもなくしりぞけてしまった。 「割りに合わないのさ。わたしも同じ手を考えたことはあるがね、じっくり算《さん》を置いてみると、人間の子供ってやつは一人前になるまでの食い扶持《ぶち》が、牛や馬の比じゃないんだ。どれほど粗末なものを、死なぬ程度にあてがったところで、えらく食費がかかる。それに、せっかく育ててもあまりひょろついていたり病身だったりしては、けっく高価には売れないしね。つまるところ骨折り損なんだよ」 「年はとりたくないわね」  珠児はつぶやいた。 「え? 何か言ったかい?」 「いいえ、ひとりごとよ。それより母さん、わたしの思いつきを終りまで聞いてちょうだい。生ませた子供らを、うちで大きくするんじゃないの。悲田院でも竜樹園でも、行基大徳の施院や道場でもかまわない、赤ン坊を引き取ってくれる所に片はしから叩き込んでしまうのよ」  それはどれも、珠児自身がまかりまちがえば入れられたかもしれないみなし子の収容施設であった。 「じゃあ、小さいうちは他人さまの手で世話させて……」 「小奴《こやつこ》として使える年にまで育ったら、受け取ってきて売りとばす……。どう? これなら一文も養育費などかけずにすむでしょ」  日ごろ抜け目なさを誇る加々女が、 「いやあ、恐れ入った企《たくら》みだねえ」  珠児の狡智《こうち》に思わず唸《うな》った。 「そのやり方なら採算はりっぱにとれるよ。珠児おまえ、おとなしやかな外づらに似合わぬ悪党じゃないか」 「末たのもしい? え? 母さん」 「たのもしすぎて怖《こわ》いくらいだよ」     二  それまでは傭《やと》い主《ぬし》、買い主側の求めに応じて奴隷市場から奴婢《ぬひ》を仕入れ、右から左へ引き渡して口銭《こうせん》を取っていただけだが、以来、加々女は方針をすこし変えた。  むろん従前通りの商《あきな》いもつづけることはつづけていたけれども、そのほかに珠児の提案にしたがって「奴隷の牧畜」を併行しはじめたのである。  裏の空地に建てたのは、逃亡防ぎの柵《さく》を厳重にめぐらした檻《おり》とも見える一棟だった。  奴婢どもを仕入れてくると、健康そうな男女だけを選り分けてこの小屋に追い入れ、二、三日昼夜の別なく、好きなだけ番《つが》わせる。  そして用済みとなるとただちに、男奴《おやつこ》のほうは売り払い、女奴《めやつこ》どもは家に置いて様子を見る。  この期間、ただ飯《めし》をあてがっていたわけでは当然ない。機織《はたお》り糸紡《つむ》ぎ、洗濯、炊事などあらゆる雑用にこき使うが、月のものが止まったとわかったとたん、これもすぐさま買い手側に引き渡してしまう。  ただし、そのさい、 「この女奴は孕《はら》んでいます。月満ちたら預ってうちで産をさせ、生まれた子は引き取ります」  と言い添える。出産休みのあいだだけ買い主は損するので、わずかばかり売り値を引いて渡すけれども、子を取って繁殖させれば、儲けは充分上回るし、買い主も女奴自身もが、赤児《あかご》の引き取りをよろこぶのであった。  奴隷は年齢によって六種に分けられる。  四歳以下の幼児はくちばしの黄色いヒヨッ子という意味で黄奴婢《おうぬひ》、五歳以上十五歳までを小奴婢、十六から二十《はたち》までを中奴婢、二十一から六十までは正奴婢、それ以上六十五歳までは老奴婢、そして六十六を越した者を耆奴婢《きぬひ》と呼ぶ。  市《いち》での付け値がもっとも高いのは、いうまでもなく正奴婢だし、中奴婢がこれに次いだ。  和銅八年に公布された格《きやく》では、 「男奴一人の価格は銭六百文、女奴四百文」  と規定されたが、お上《かみ》のきめた値段などおおよその目安《めやす》にすぎない。  物価の移り変りにつれて奴隷の価値も絶えず上下する。大豆一|斛《こく》で幾人、|※《あしぎぬ》一丈、糸一斤、稲から酒、塩、酢、馬皮《ばひ》、薪炭、瓜《うり》や芥子《からし》、桃の実、桑の実などの成り物、斧《おの》、鑵子《かんす》、筆、墨にいたるまで万般にわたる物品と、奴婢との交換相場をびっしり列挙して、珠児は帳面に書きつけている。  市立《いちだ》ちの雑沓《ざつとう》の中でその字づらに目を走らせ、一文一厘損のいかぬ取り引きを成立させる手ぎわも、文盲《もんもう》の加々女にはできない芸当だった。  その相場も、しかし働きざかりの正奴婢を標準にして弾《はじ》き出したもので、半人前の役にしか立たぬ小奴婢や老奴婢は、三分の一以下の安値でなくては買い手がなかった。  まして穀《ごく》つぶしとだけ見られている黄奴婢だの耆奴婢となると、見向きもする者はいない。  悪疾《あくしつ》にかかって治る見込みがなくなったり、手足を折るなどの大怪我《けが》をして役立たずになった奴隷は、殺すか、一般家庭の老人病者同様、山奥へ捨てるのが常識だが、耆奴婢もやはり、 「もはや財物としての値打ちを失ったもの」  とみなされ、遺棄されるのが普通であった。  赤ン坊の場合は、これも加々女でさえが、 「育てたのでは食い扶持《ぶち》がかかって割りに合わない。七ツ八ツの小奴婢を市場で買って来て使ったほうが、はるかに安くつく」  と言っていたほどだから、一般の買い主が敬遠するのは無理もなかった。 「引き取ってあげましょう」  と申し出れば、密殺の手間がはぶけるだけでもありがたがって二つ返事で承知してくれる。  もっとも、勘定高いのは傭う側の常だから産気《さんけ》づくぎりぎりまで酷使しつづけ、いよいよとなってようやく、送り返してくる。  肩で息をしているような妊婦を、鞭《むち》を鳴らして裏の小屋に追い入れるのは珠児だ。老いの目立ちはじめた加々女に代って、近ごろ商売を取りしきりだした彼女が、その右手から離さないのは、細い、しなやかな革鞭《かわむち》であった。  獄吏などの持つ竹の笞《しもと》を加々女は愛用しているけれど、いかにも古風だし、やぼったい。奴隷どもを折檻《せつかん》するさいも音ばかり仰々《ぎようぎよう》しくて、打撃そのものの効果は薄かった。  革鞭はそこへゆくと珠児の華奢《きやしや》な姿態によく合った。肉に当って、びしッと鳴る音も小気味よく、痛さは骨に徹する。若い、柔かな女奴《めやつこ》の皮膚など二打ちか三打ちでたちまち破れ、血を噴き出した。  悲鳴を愉しみでもするように、ささいな咎《とが》で鞭を振るう珠児の、雲母《きらら》を貼《は》りつけでもしたように表情のない、冷ややかな眼を見ると、 「まるで蛇だ」  屈強《くつきよう》の男奴隷ですら竦《すく》みあがる。  形に添う影に似て、そんな珠児の身近にいつも従っているのは、牛麻呂《うしまろ》という下男であった。  その名の通り野牛を連想させるいかつい体躯の大男で、顔まで牛に酷似している。それだけでも異相なのに、片面いっぱいに牛麻呂は火傷《やけど》の爛《ただ》れを貼りつけていた。耳は熟柿《じゆくし》を踏んだように潰《つぶ》れ、鼻も口も一方に引き攣《つ》れて唇《くちびる》をぴったり閉じることができない。乱杭歯《らんぐいば》と歯ぐきがむき出しになり、しょっちゅう啜《すす》りこんでいなければ唾液《だえき》がたれてしまうのだ。  牛麻呂という名は、この涎《よだれ》からも適切だが、命名したのは加々女だし、火傷を負わせたのもまた、加々女であった。十三のとき市場で買われた牛麻呂は、つれて来られたとたん盗み食いをして、加々女に後首《うしろくび》を掴《つか》まれ、煮えたぎる汁の中に顔半分をつけられたのである。  よほど懲《こ》りたのだろう、盗み癖はピタとやんだ。でも面相の醜怪さから買い手がつかず、そのまま加々女の家に飼いごろしになって下僕仕事に使われている。 「あいつには、だけど油断できないよ。牛みたいに黙りこくって、何を考えてるのか為体《えたい》の知れない男だし、しんそこのところではわたしを恨んでいるかもわからない。お前もけっして牛麻呂には気を許すんじゃないよ」  加々女の懸念《けねん》は、だが的《まと》をはずれていた。  珠児にだけは何を命じられても、牛麻呂は忠実に従った。鈍重な打ち見のわりに、動作は機敏だし、人殺しなど何とも思わぬ狂暴性の持ちぬしでもある。  病気で死にかけた奴隷を、まだ息のあるうちから菰《こも》でくるんで、軽々と春日《かすが》の奥山へ捨てに行くのは牛麻呂だし、たまに生まれてくる奇形児を、蚯蚓《みみず》をつぶす無雑作さでひねり殺すのも牛麻呂の役だった。  産の介添えも、珠児に言いつけられて牛麻呂がやった。陣痛にのた打つ妊婦の腹をさすり、腰を持ち上げて、生まれかかる赤児を産道から引き出す。ふしくれ立った指で臍《へそ》の緒を捻《ね》じ切り、水を浴びせて清めるあいだじゅう珠児はそばで監視しつづけ、 「たんといとしんでおやり」  母となった女奴《めやつこ》の腕に赤ン坊を抱かせるのだ。  しばらくすると乳が張りはじめる。乳口《ちぐち》を開けるのも牛麻呂の役だった。生みの苦しみで夢中だった女奴も、気が落ちつくと牛麻呂の顔貌の奇怪さに戦慄《せんりつ》する。まくれ上ったその唇に乳首を捉えられた瞬間、無気味さに悶絶《もんぜつ》しかかるさわぎも時おり起こった。  珠児の鞭が、気つけ代りにしたたか、そんな女たちの背を見舞う。とたんに産婦は正気づき、牛麻呂の口が乳首を強く吸う痛さに耐える。やがて甘い、まっ白な乳液がほとばしり出、赤ン坊の小さな胃ぶくろにそれは流れこむのである。  授乳は三日間つづけられる。  産後の養生の、そこまでが限度だった。  四日目の朝、女奴は産褥《さんじよく》から引きずり出され、孤児の収容施設に赤ン坊をつれて行かされる。 「いいかい、『奴隷の子でございます。手もとに置くことはかないませぬ。五ツ六ツになりましたらかならず引き取りにまいりますゆえ、それまでお預かりください』とたのみこむのだよ」  珠児に教えられるまでもない。当の母親自身、奴婢の生んだ嬰児《えいじ》がまともには生きられない仕組みを承知しているから、 「助けてやってください。お慈悲ですッ」  哀願する声にも涙にも、真剣さがこもった。三日間の抱き寝で、母性愛も切ないまでに高まっている。疫病が大流行した直後などとは世相も変っていたから、どこかしら引き受けてくれる収容所はあった。  女奴は身軽になって本主《ほんしゆ》の屋敷へ帰る。  逃がさない用心にはじめから終りまで、牛麻呂がそばに附いていて、 「また、この女が、お宅さまの奴長屋《やつこながや》でだれぞ男奴《おやつこ》の種を孕んだら、生むまぎわにお返しください。腹を空《から》にしておもどし申します」  買い主に告げるのを忘れない。売った先での妊娠にまで手を回して子供を獲得する算段をしたから、「奴隷の牧《まき》」は順調に軌道《きどう》に乗った。  五歳になると半日、母親を本主から借り出して施設へ子供を受け取りに行かせる。 「これから一緒にくらせるよう同じ買い手に売り渡してやるよ」  そう言ってつれもどさせても、うまく行く例は十のうち一つ二つしかない。大多数の買い主が労働力の低い小奴婢の引き取りを渋るから、五年ぶりの再会も、じつは親子生き別れの地獄に変じるのがほとんどだった。 「どこへもやらないでッ、お願いですッ」  髪ふり乱しての悲嘆も、珠児の鞭の前では用をなさない。撲《なぐ》りつけられ、追い立てられて、母親はふたたび本主の邸内へ帰され、子供は、 「小奴《こやつこ》でもかまわぬ」  と希望する買い手のもとへ即座に売り払われてしまうのである。  貯《たくわ》えは、おもしろいように増えつづけた。半生のあいだ、爪に火をともす吝嗇《りんしよく》ぶりで加々女は相応の財を溜めこんでいたけれど、珠児が片腕となって稼ぎはじめてからは飛躍的にその額が伸びた。  二つの倉には高価な錦や絹、舶載品の玉だの香木だのがぎっしり詰まっている。銭《ぜに》の袋、砂金の袋もあるのに、どこに匿《かく》すのか、珠児にすら加々女はけっして鍵のありかを明かさなかった。  利用する見返りとして可愛がりはしても、 「しょせん、血のつながらぬ他人」  と警戒しているのか、それとも生来の独占欲からか、倉の中身を自分以外の者にすき見もさせない。  食べる物、着る物など極端なくらいつましく、年ごろの珠児にも髪にさす釵子《さいし》、絹裳《きぬも》など贅沢《ぜいたく》な品はいっさい与えなかった。 「飾り立てなくたってお前はきれいだよ」  見えすいた世辞笑いでごまかすのを、口惜《くや》しげに睨《にら》んで、 「冥途《めいど》へ持ってゆけやしまいし……」  牛麻呂相手に、珠児はこっそり舌《した》打ちする。 「あいかわらず肥ってはいるけど、母さんもそろそろ七十でしょ。どこまで業《ごう》つくばりなんだろう。呆《あき》れるわ」  市場にも加々女はまだ、出かけてゆく。奴隷の目ききばかりは人まかせにできないとの理由からだが、そんなある日、 「掘り出し物だよ珠児」  いずれも正奴婢に該当する三十半ば、四十歳前後と見える男女十人ほどを、ひとまとめに仕入れて来た。だれの目にも、根からの奴《やつこ》上りとはうつらない人々であった。 「そうなのさ、こいつらはついこのあいだまで良民だった。衛府《えふ》の将官やその家族どもだが、上司に反抗し、叛乱を企らんだ罪で他の大勢の仲間もろとも一網打尽にされた。そして氏姓を剥《は》がれ、奴婢に堕《お》とされちまったってわけさ」  めったにない買い物である。百名近い徒党が捕縛され、奴隷市場にさげ渡されて分け取りされた中で、加々女の手に入ったのがこの男たち女たちなのだという。 「ちょっと待ってよ母さん」  状況の激変に怯《おび》え、囲い小屋の隅に寄りかたまった彼らのうちの、夫婦者と見える一組に、珠児は鋭い凝視をじっと射つけた。 「見おぼえがあるわ。この二人……」  幼女のむかし、官舎の隣りに住んでいた佐伯《さえきの》真依《まより》と、その妻の小奈伎《こなぎ》だったのだ。     三  地獄に仏の思いだったらしい。娘を、珠児と気づいた瞬間、その足もとに突っ伏して、 「亡きご両親のお引き合せにちがいないッ」  真依夫婦は両眼に涙をたぎらせた。 「大きくなられた。美しい娘御になられたな珠児さん、あなたのところへ買われて来たとは、何という僥倖《ぎようこう》だろう」  裳《も》のすそに縋《すが》り寄った真依の額を、だが女沓《ぐつ》の足をあげて、 「いいかげんに目をお醒《さ》まし」  思いきり珠児は蹴りのけた。 「昔のよしみ……。そんな寝ごとが通用すると思うの? お前たちはもう人間ではない。物になりさがってしまったのよ。売れば金になる品物を、だれがのめのめ解き放つものかね」  鬼さながらな拒絶に、唖然《あぜん》としながらも、 「では、せめて妻と一緒に売ってほしい」  真依は嘆願した。 「小奈伎は気弱だし、身体も丈夫ではない。私が支えていてやらなければ、到底これからの苛酷な歳月を生きぬいてゆけないと思う」 「そう。それが二人の望みなら、夫婦ばらばらに売りとばしてあげよう」 「な、なんだって!?」 「今のうちに性根《しようね》を入れ替えないと、けっくお前たち自身、苦しむことになるのだからね」  小奈伎が泣き伏し、その妻の肩の慄《ふる》えを、真依が力いっぱい抱きしめた。  とんじゃくなく、珠児はてきぱき頭数《あたまかず》をかぞえた。 「真依夫婦をのけると、あとは男五人に女三人か。ちょうどよい。七、八人まとめて寄こしてくれと注文してきている買い手があるの。お前たちはそこへ束《たば》にして売ってやるから、奴婢長屋ではせっせと婚《まぐ》わって、この女どもをみごもらせる算段をおし。母子《おやこ》、兄妹《きようだい》、他人の妻……。組み合せなどどうだっていい。人倫《じんりん》なんてことにこだわるのは、人間だったころの話なのだからね、牛馬同様、買い主の財産になった上は、子を作って増えてあげるのもお前らの仕事の内なのよ。もっとも、それをするしか楽しみのない毎日が、これから始まるわけだけどね」  数珠《じゆず》つなぎに足首を鎖でつなぎ、八人を買い手の屋敷へつれて行かせたあと、 「さあ、つぎはお前らの番ね」  珠児は残忍な表情で真依夫婦に向き直った。 「まず二人とも、しがみつき合ってないで離れなさい」  と鞭を振りあげ、 「なにをするッ」  妻をかばいかける真依の全身を、抵抗のすきも与えぬすばやさで乱打したあげく、ぐったりしたのを見すまして、ずるずる窓ぎわまで牛麻呂に曳きずってゆかせた。大の字なりに、真依の両腕を牛麻呂は二本の格子《こうし》にくくりつける。  その夫の目の前で、 「さあ牛、ぞんぶんに慰《なぐさ》んでおやり」  珠児が許したのは、小奈伎への凌辱《りようじよく》であった。さすがに見かねたのだろう、 「なぜ、この二人にだけそんなに辛《つら》く当るんだよ珠児」  加々女が口をはさんだ。 「お前まさか、焼いているんじゃなかろうね。夫婦仲はむつまじいし、それに小奈伎は、牛なんかに食い荒させるにはもったいないほど品のある美人だものね」 「なにを言うのお母さん」  蛇と蔭口《かげぐち》きかれている珠児の両眼が、憎悪を刷《は》いてギラと光った。 「昔のよしみにすがって、何とか少しでも庇《かば》ってもらおうとするこいつらの甘ったれ根性が、わたしは憎いだけよ」  このまに牛麻呂は汗臭い布衫《ふさん》をかなぐりすて、褌《たふさぎ》まではずして素裸になった。小奈伎に挑《いど》みかかる勢いは、文字通り野牛の猛進を髣髴《ほうふつ》させた。  恐怖の絶叫が、女の咽喉《のど》をたちまち塞《ふさ》ぐ。失神と覚醒のくり返しの中で小奈伎は牛麻呂の意のままに翻弄《ほんろう》され、しまいにはかぼそいすすり泣きを切れ切れに洩らすだけになった。 「牛は赤ン坊を取り上げるのがうまいけど、女の腹に子種を蒔《ま》くのも上手ね。百発百中、抱かせた女奴《めやつこ》をみごもらせるもの」  珠児は嗤《わら》いながら、固く目を閉じ、歯をくいしばって眼前の酸鼻《さんび》に耐えている真依に、 「見たくなければ見なくてもいいわ」  ささやいた。 「でも、あしたは生き別れよ、もう二度とあんたたちは逢えなくなるのだからね、どんなにあられもない姿でも、今生《こんじよう》での見納めに、恋女房の裸を目に灼きつけておいたほうがよくはないかしらね」  真依が死んだのは、それから半刻ほどのちだった。母屋《おもや》に引きあげて、加々女と珠児がおそい夕食の卓を囲んでいるところへ、 「男が舌を噛み切りましたッ」  牛麻呂が泡をくって告げに来たのだ。  いそいで小屋へ駆けつけたが、まに合わなかった。両腕を逆八の字に縛りつけられたままの形で、がくッと前へ真依は首を垂れ、その口からは鮮血がなお止まらずに溢《あふ》れつづけていた。  紐帯《じゆうたい》が切れて舌は咽喉の奥まで捲《ま》くれ込み、気管を閉じてしまっている。窒息《ちつそく》死であった。  小奈伎は狂ったように泣き悶《もだ》えてい、加々女は地団駄《じだんだ》ふんで、 「ああ惜しい。たいまいの物代《ものしろ》をフイにしてのけた。お前が意地の悪い苛《いじ》め方をしたせいだよ珠児、どうする気だい」  大損を喞《かこ》ったが、不意にその喚《わめ》きがとだえ、よろよろと数歩、うしろへ退《しさ》ったと見るまに、地響き立てて仰向けに倒れた。激烈な卒中《そつちゆう》の発作《ほつさ》に襲われたのである。  鼾《いびき》をかいて眠りつづけ、意識がもどったときは手足の自由が麻痺《まひ》していた。全身不随であった。 「気がついた? 母さん」  その反応を吟味しながら、 「耳は聞こえる。目の玉も動く。口の呂律《ろれつ》も、いくらかは回るようね。よかったわね」  珠児は微笑した。 「まず報告します。真依の死骸は小屋の脇に穴を掘って埋めました。小奈伎の身柄も買い手に渡し、『妊娠していたら子供は引き取ります』と、いつもの通り送りの者に口上を伝えさせておいたわ。あの女は摂津の製塩業者に買われたの。一生涯これからは、汐汲《しおく》みの重労働に追い使われるのよ」  榻《とう》を引きよせて、加々女の枕もとに珠児は腰をおろした。 「ところで、このさいあなたに訊《き》くけど、倉の鍵はどこにあるの? 教えてください」  病人の両眼が、さっと凍《こお》った。 「言わない気? こんな丸太ン棒のような身体になってもまだ、欲の皮が突っ張るつもりなら、わたしにも考えがあるわよ。餓えようと渇《かわ》こうと、いっさいあんたの面倒は見ません。でも鍵を渡してくれたなら血のつながりはなくても母娘《おやこ》ですもの、尿《しし》ばばの世話はもちろん、至れりつくせりの看病をします。育ての恩を返すつもりでね」  氷がとけ、加々女の目に涙がもりあがった。それが口惜し涙か、憐れみを乞《こ》う涙か、腑甲斐《ふがい》ない病躯《びようく》に歯がみしての涙かは、判然しなかったが、 「からいろの、いりのいた……」  かろうじて聞き取れた言葉の意味は、 「なあんだ、空《から》井戸の石の下ね?」  たちまち解いてしまった珠児である。  三つ掘られている邸内の井戸のうち、水の枯れたほんの三尺ほどの浅い空井戸——。  底に敷きつめられている平石《ひらいし》を幾つか持ちあげてみると、はたしてその下から目的の物が出てきたのであった。 「牛麻呂、おいで。ここへ……」  腹心の男奴《おやつこ》を、珠児は呼びたてた。 「ごらん、倉の鍵よ。今日からわたしが当家の女主人だからね。そのつもりで初仕事を引きうけてほしいの。お前を化物みたいな面相にしてのけた強欲婆さんの始末よ。だれもがするように、山奥へ捨てて来てもいいし、真依を埋めた穴をもう一度掘り返して、一緒に埋めてもいい。まだ生きてはいるけれど、この空井戸に抛《ほう》りこんで土をかぶせてしまってもかまわないわ。お前の腹が癒《い》えるやり方で、さっさと片づけてしまってちょうだい」 「合点です」  涎《よだれ》に濡《ぬ》れた唇を、世にもうれしげにニヤリと歪《ゆが》めて、病室の方角へ牛麻呂はのしのし去ってゆく。そのうしろ姿を満足げに見送ったあと、珠児は、これも足どり軽く倉へ向かって歩きはじめた。 紙の鞭《むち》     一  渤海国《ぼつかいこく》の秋は美しかった。火頭《かとう》型にくりぬかれた庫裏《くり》の窓から、高階緒弓《たかしなのおゆみ》は空を見あげて、 「吸いこまれそうな青さですね」  つい知らず、隣りの部屋へ声を投げてしまった。 「唐にくらべると、だいぶ北に寄っていますからね。冬の訪れはそれだけ早いが、晩秋のこの季節、大気は研《と》ぎ出しでもしたように澄んでくる。木々の色づきも鮮やかでしょう?」  と戒融《かいゆう》法師も、まぶしげな視線を昼さがりの庭に放った。目が血走っている。遠慮がちながらコトコトと昨夜は明け方近くまで、隣室から物音が洩《も》れていた。ろくに眠りもしなかったらしい。  それでもまだ、戒融の膝の回りにはうずたかく経巻や仏典のたぐいが積み上げられたままだ。出港の前日までに船に運び込む約束だから、寺の外へ一歩も出ず、弟子の浄敬《じようけい》相手にほとんど不眠不休で、戒融は荷造りに精出しているのである。 「すこし手伝わせてください、私にも……」  見かねて緒弓が申し出ても、 「虚弱なあんたに、櫃《ひつ》の縄からげなんぞ到底むりですよ。書籍というやつはこれで案外、重いからね」  つっぱねる。ぶっきらぼうな語調の裏に、思いやりが籠《こも》っているのを緒弓は知っていたし、分類にしろ整理にしろ梱包《こんぽう》にしろ、人まかせにはできないほど、じつは戒融が荷物に執着している事実もよく承知していた。 (なまはんかな手出しは控えたほうがいい)  そう判断し、彼は彼で、自身の帰国準備に没頭した。でも、それももう昨日のうちに済んだ。妻や子はいま、土産の品を求めに町へ出かけている。 「どうやら櫃が一つ足りなさそうだ。買ってきてくれ」  師の戒融に言いつかって浄敬も案内がてら彼らと一緒に寺を出たが、 (それにしても帰りがおそいな)  緒弓はそろそろ気になりはじめていた。  浄敬は元来が渤海国人で、しかもここ——首都の忽汗《こつかん》城内で生まれたのだという。繁華街の地理には、したがってくわしい。子供たちの晴れ着用に布地を買いたい、日本のお義兄《にい》さまには錫《すず》の小壺《こつぼ》に茶を詰めてお贈りしたらよろこばれるのではないかしらなどと妻の宝翠《ほうすい》は言っていた。 (品数のある店、安い店を探し歩き、忙しい浄敬さんまでを引っぱり廻しているのではないか)  荷ごしらえに孤軍奮闘中の戒融を見るにつけても、弟子の帰院の遅さを家族らの甘えに結びつけて、小心な緒弓は気を揉《も》むのである。  窓ぎわの榻《とう》に腰をおろして、さも暇そうに庭の秋色に見入っているのが、やがてすこしずつ苦痛にさえなりだした。 (せめて仏国寺の門前あたりまで連中を迎えに出ていようかな)  立ちあがりかけた目に、石だたみの参道を急ぎ足でもどってくる妻や子の姿が映った。女の子を抱いているのは乳母の王慶《おうけい》、大きな唐櫃を背にくくりつけて浄敬もむろん、従っている。 「帰ってきましたよ戒融さん」  ほっとした緒弓は、家族たちに手招きしかけ、 「おや?」  中途でその手を止めてしまった。近づいて来た浄敬は右の目の回りをどすぐろく腫《は》れ上らせているし、ことし十三になる緒弓の息子の広成《ひろなり》までが、ま新しい衣服を泥だらけにしているのだ。 「どうしたんだお前がた、その有様は……」  日本名で呼ばれてはいるけれども、混血児の広成は日本語がわからない。緒弓が家族に向かって口にするのは、いつも使い馴れた唐国語であった。 「どうもこうもないんです。理不尽な酔漢に広成坊ちゃまが絡《から》まれましてね、割って入ったわたしまでごらんの通り撲《なぐ》られてしまいました」  浄敬の説明に緒弓は呆《あき》れて、 「子供じゃないか。いったい広成が何をしたというのだね?」  妻に質《ただ》した。 「何もしやしませんよ、おとなしい子ですもの……」  昂《たかぶ》りの余波か、宝翠も青ざめながら早口に喋《しやべ》った。 「居酒屋の前に饅頭《まんじゆう》の屋台が出ていたんです、湯気のほかほか立つうまそうな蒸《ふ》かしたてなので、子供たちに食べさせようと思って五ツ六ツ竹の皮に包ませているところへ、居酒屋から酔っぱらいが出て来ました。戸口に寝そべっていた犬につまずき、吠《ほ》えつかれたのに驚いて尻もちをついた。そして、手足をあがいて起き上りざま、うちの広成に突っかかってきたんですよ。『この餓鬼《がき》、何を嗤《わら》う』って……」 「照れ隠しの八ツ当りだな。子供なら、しかし無理はないよ、そんなときに可笑《おか》しがるのも……」 「嗤ったりはしないよお父さま」  広成が口をとがらせて弁明した。 「おれ、屋台の饅頭を見てたんだもの、あの酔っぱらいが転んだことすら気づかなかった。犬の吠え声とどたんという音にびっくりして、振り向いただけなのに、いきなり胸ぐらを掴《つか》んでこづき回しはじめたんだよ」 「どうもその男、日本人らしいんです」  引きとって浄敬が言った。渤海の産ではあるが唐国に渡り、日本人|入唐《につとう》僧の戒融に師事して侍者《じしや》を勤めてきただけに、浄敬には日本語を断片的に聞き取るぐらいの能力はある。  少年を罵《ののし》った酔漢の言葉は、たしかに日本語だったと浄敬は言い、乳母の王慶も同調した。 「日本人か、そいつ……」  戒融と顔を見合せて、 「恥さらしな話ですなあ」  緒弓は眉《まゆ》をしかめた。  渤海は七世紀末に、唐の東北部に出現した新興国家である。おもに高句麗《こうくり》人と靺鞨《まつかつ》人によって構成されているけれども、新羅《しらぎ》人もいるし契丹《きつたん》人、唐人もいて、人種の坩堝《るつぼ》といった印象を受ける。漁民や商人など海を渡ってやってくる日本人もすくなくない。支配者はいま、三代目の王位を継承する大欽茂《だいきんも》という人物で、文王と称している。なかなかの明君らしく国力は伸び、王権はめざましく強まって、しかも唐や新羅など隣邦との関係も平穏だ。唐の朝廷は渤海の独立を認め、大欽茂の地位を保証して「渤海国王」の称号を許した。  日本とも、先代の武王のころから好《よし》みを通じ合い、おたがいに使者を送ったり送られたりの交際が、すでに四、五十年もつづいている。領民同士の私的な往来もさかんだから、あちこちで日本人を見かける折りは多い。  渤海国内は六十二州十五府に分かれ、さらに全土に上京・中京・東京・西京・南京の五京が設けられている。でも、なんといっても首都の置かれている上京竜泉府が政治や文化の中心地で、住民の数も他州にぬきん出ていた。  唐の長安を手本にして造った忽汗城内は、ことに殷賑《いんしん》をきわめ、都大路に植えられた並木のみごとさにすら国力の充実ぶりが見てとれる。王城をはじめ諸官庁、仏寺や商家民家がびっしり軒をつらね、下町には官許の市場も立って、群集めあてに集まる大道芸人の呼び声など、連日、祭りの日のようなにぎやかさだった。  日本人の評判はそんな中で、どうもさほど良くない。売り手の側、買い手の側、どちらに回っても、 「頭《ず》が高い」  と、蔭《かげ》口をきかれている。大先進国の唐などでは小さくなっているくせに、渤海あたりにくると新しく出来た国と蔑《あなど》るのか、とかく態度が横柄《おうへい》になる。代金を踏み倒したり酒場で喚《わめ》いたり、料亭で高歌放吟して鼻をつままれるといった傍若無人さが、日本人の評価をはなはだしく落としているのを、戒融や緒弓も忽汗城へやってきてはじめて知った。 「おそらく広成に絡んだ酔いどれなども、そんな手合いの一人なのだろうが、浄敬さん、あなたまでを撲るなんてまるで無頼の徒《と》同然なやつではありませんか」  倅《せがれ》の巻き添えから、とんだ目にあわせてしまいました、堪忍してくださいと詫《わ》びる緒弓に、 「なあに一発、目の下をやられましたけれど、お返しに足腰立たぬほどぶちのめしてやりましたよ。これに懲《こ》りて、当分でかい面《つら》はしなくなるでしょう」  浄敬は笑いながら手を振って背中の唐櫃を院子《いんす》の上り框《がまち》にどさっとおろした。 「そうなの。浄敬さん強いんだよお父さま、酔っぱらいのやつ、足を引き引き逃げて行っちまった。こんなふうにね」  真似をする広成の姿に戒融が腹をかかえ、宝翠のこわばった顔もようやくほぐれた。買い求めてきた品物を彼女は夫に拡げて見せ、饅頭の包みをほどいて、 「召し上ってください戒融さま。どれほど大事なお経文かはぞんじませんけど、休息もなさらずに荷造りに根《こん》をお詰めになっては、お身体に障りますわ」  すすめた。 「や、うまそうだな。では遠慮なくいただきます」  一つ摘《つま》みはしたものの、口へ抛《ほう》り込むととたんに、むしゃむしゃやりながら経巻の山に立ち向かいはじめる戒融である。浄敬もすぐ、師に手を貸して働きだし、どうやらその日の夜おそくには、すべての梱包をやり終えた気配であった。     二  戒融は浄敬を伴《ともな》い、緒弓は家族をつれて、それぞれ日本へ帰るために渤海国へやって来たのである。  かかわりといえば、それだけのことだった。たまたま同じ目的を持ち合った日本人同士二組が、直前に知り合い、大唐の都長安からここまで、一緒に旅をしてきたにすぎない。  中国大陸の東岸から船出して日本の南九州、あるいは沖縄諸島にたどりつく航路は、北廻り南廻りの差はあるにせよ遣唐使船のとる順路であった。  でも、黄海や東支那海を横切って進むこの航行には、海難の危険がつねについてまわった。たとえば四|艘《そう》出ていった船が、大陸の港湾のどこかに着いたときには、三艘に減ってい、さらに難波《なにわ》の津に帰還したさい、たった一艘きりになってしまっていたなどという悲劇は、かぞえきれない。無事に往復できたとしたら、かえってそれこそが奇蹟《きせき》なのである。  すこし遠まわりではあるけれど、個人の資格で日本へ帰ろうとする場合は、 「むしろ渤海から船出したほうが安全ではないでしょうかな」  戒融は緒弓夫婦に、そう提案したのだ。長安の都から、たとえば登州・楚《そ》州・揚州・越州など唐国の海岸線に出る旅程も、なかなかの距離である。それよりなお、少々日数はかかるが、北上して渤海国の国都を目ざす……。 「唐との往来よりも、日本と渤海の国交のほうが現在さかんなくらいですからね、忽汗城内には日本人の出稼ぎが大ぜいいるはずです。金を払いさえすれば商人船に乗せてもらう機会は、いくらでも掴めるでしょうし、うまくすれば遣渤海使《けんぼつかいし》の帰国に便乗して、堅牢な官船に乗ることすら可能でしょうよ」  中京から東京までは、幾日の旅でもない。良港を持つ東京の竜源府に、何艘となく船がかりしているであろう大小の日本船……。うちの一艘に乗って朝鮮半島の東の海上を南下し、裏日本の敦賀《つるが》を目ざすのが、 「航海日数がみじかく、荒天《しけ》に遭う恐れもすくない最良の方法だと思いますよ」  と戒融に相談されて、拒む理由はいささかもなかった。 「万事、おまかせします」  応じながらも、薄い胸郭の内側で心臓が妖しく鼓動を早めるのを、高階緒弓は意識していた。 (いよいよ帰るのだ、日本へ……)  心中、そっとつぶやいただけで息ぐるしくなるほどの郷愁に襲われる。 (よく三十年近くも異国ぐらしをつづけていられたものだ)  訝《いぶか》しくさえなった。  彼はいわゆる�落ちこぼれ留学生�であった。二十数年前に、選ばれて遣唐使船に乗った秀才なのである。大唐留学は学生たちの憧《あこが》れだった。学力・容姿・弁説・健康状態・精神力……。あらゆる面から銓衡《せんこう》の篩《ふるい》がかけられ、 「最優秀」  と太鼓判を押された者だけが派遣を許される。充分な官費も支給され、業成って帰国すれば大学や官界に、相応の地位が約束されていた。当人の努力次第で未来は洋々と展《ひら》けているはずなのだが、図式通りにゆかないのが人間の運命というものかもしれない。  華やかな外国ぐらしに足を掬《すく》われ、女や酒、媚薬《びやく》や賭けごとなど享楽の魔力に抗しきれずに、身をもちくずしてしまう留学生・留学僧も、さほど多くはないまでもけっして珍らしい例ではなかった。いつとはなしに彼らは同期の仲間から離れ、都会の塵の底にうずもれて消息を絶ってしまう。やがては日本語を忘れ、日本人であった過去も忘れて、唐人ぐらしの陋巷《ろうこう》の中に老い朽ちてゆくのだろう。  緒弓を見舞った挫折《ざせつ》は、労咳《ろうがい》であった。身体検査には合格して留学資格を得たのだから、渡唐してからの勉強のしすぎが祟《たた》ったのかもわからない。二度、三度と大量の喀血《かつけつ》をし、体力の衰えがひどくなるにつれて、燃えるようだった修学への意欲も薄れてしまった。取り残されてゆくことへの焦り、焦りからの無理、無理が高《こう》じての病状悪化……。そんなことのくり返しから自暴自棄に陥り、唐政府が収容してくれた四方館内の病舎をぬけ出して、高宝翠の家にころがりこむ始末にもなったのである。  彼女は病舎に勤める賄婦《まかないふ》だった。 「あんた、高って姓か?」 「そうよ」 「おれも高だ。高階《たかしな》というんだ」  そんな会話から急速にしたしさが深まって、いつとはなしに寄り添い合う感情が芽ばえた。 「おれの寿命もながいことはない。あんたのそばで死なせてもらいたいなあ」  自身の額に、みずからの手で落伍者の烙印《らくいん》を押してしまった緒弓を、宝翠はあたたかな微笑で包んだ。 「やけになんぞ、なる気ならいつでもなれるわ。それより、立ち直る気を起こしてちょうだい。私のために……」  励ましもし、看病に手を尽してもくれたおかげか、緒弓の症状は少しずつ好転し、やがて病床を払えるまでに漕《こ》ぎつけた。  二人は結婚した。広成が生まれ、女の子の志万女《しまめ》が生まれた。 「言ってみればあなたの身体は、ひびの入った茶碗よ。大事にしなければいけないの。稼ぎの心配ならわたしがしますからね」  働き者の宝翠は夫をいたわってせっせと四方館の病舎に通い、精勤をみとめられて厨房《ちゆうぼう》の監督にまで出世したが、緒弓も妻の言葉に甘えっぱなしでいたわけではない。筆耕の内職に精を出したし、近所の子供らを集めて小さな学塾を開くなどそれなりに収入の道をはかったから、長安の裏路地住まいではあっても生活は安定していた。  志万女には王慶という乳母を傭《やと》い、一家五人、平穏なあけくれを楽しんでいたところへ、波紋を投げかけてきたのが一通の便りである。緒弓の兄がはるばる寄こした手紙であった。 「弟御《おとうとご》らしい日本人を長安の青竜寺に近い町筋で見かけたという人がいる。そこで半信半疑ながら、筑紫《つくし》の那《な》ノ津《つ》から船出するという交易船の乗り組みに託して、書状を送ることにした。届くものやらどうやらおぼつかないけれども、もし、これを読んだら帰ってきてくれ。先に帰国した留学生諸君の口から、お前が病気になり、行方不明になったと知らされたときの、私ら夫婦の心痛はどれほどだったか。あきらめきっていただけに、生存の報を夢ごこちで聞いた。いろいろ都合もあろうが、こちらの稼業は順調にいっている。妻子がいるなら妻子ごと帰ってきても、一家の面倒ぐらいらくらく見てやれる。どうか安心して、余生を私らのそばで過ごす気になってほしい」  身寄りといえばこの兄しかない。たった一人の肉親の、二十数年ぶりで目にする筆跡であり、呼びかけであった。緒弓は慄《ふる》えた。なつかしさに胸が軋《きし》んだ。 (帰ろう、日本へ……)  やみくもな激情に、理も非もなくわしづかみされてしまったのである。  心の寛《ひろ》い穏やかな兄だった。嫂《あによめ》も好人物だし、手紙にもある通り生活に困ってはいない。平城京の五条三坊で手びろく薬舗をいとなんでい、財は充分たくわえているのだ。 「でも……」  ためらいの根は妻や子にあった。宝翠はもちろん、二人の子も日本を知らず、日本語は片コトすら話せない。 「そんなことは何の障害にもなりませんわ。習えば覚えられます。日本人のあなただって、そうやって自在に唐語をあやつれるようになったのですものね」  宝翠の語調はいさぎよかった。  唐人づき合いの上で緒弓は、高内弓《こうないきゆう》と唐名を名乗っている。風俗習慣も唐風に従って、外づらからはまったく日本人とは見えないが、それとなく帰化をすすめても応じないし、子供らには広成、志万女と、それぞれ日本|風《ふう》な名をつけていた。夫の心の奥底に、埋《うず》み火さながら秘められている故国への思慕……。それを知る以上、宝翠には逆らう気が起こらなかった。 「では行ってくれるか? 日本へ……」 「まいりますとも。わたしは妻ですよ。あなたのいらっしゃるところへなら、どこにだってついて行きますわ」  乳母の王慶も係累《けいるい》がない女だけに、 「お邪魔でなかったらつれてって下さい」  と、せがんだ。 「手塩にかけてお育てした坊ちゃまや嬢ちゃまとお別れするのは辛《つら》い。私もぜひ、日本とやらへお供しとうございますよ」  ありがたい申し出だ。なじんだ誠実な奉公人が附き添っていてくれるだけで、妻子らの異国ぐらしがどれほど救われるか……。 「たのむよ王慶。どうか同道しておくれ」  緒弓は礼を言いたいくらいだった。  たちまち決意は固まり、小一年かけて長安を引き払う用意も完了した。あとは、 「どうやって日本へ帰るか」  渡航の手段一つが残されたが、そのやさき、やはり帰国を計画している日本人僧——戒融に、緒弓は紹介されたのである。  話し合っているうちに、二人は天平四年の遣唐使船で唐へやってきた同期生だとわかった。 「これは奇遇ですなあ、拙僧の船は副使の中臣名代《なかとみのなしろ》どのが乗った第一船でしたよ」 「わたしが乗ったのは大使のご乗船です」 「あのときの大使は多治比広成《たじひのひろなり》どの。大船四艘。総勢六百人近い派遣人数でしたな」  船が分かれていたし、僧と学生では留学の目的や場所もちがう。長安到着と同時に分散したから、戒融と緒弓は顔も名も知らぬまま同じ長安の空の下で、二十年を越す歳月を無縁にすごしたわけであった。  息子の名を、大使のそれにあやかって広成と附けたのも、希望に胸を躍らせながら唐土を踏んだ遠い日の、せめてもの記念のつもりだが、そこへゆくと戒融の生きざまは緒弓などとは正反対に、強靭《きようじん》な意志に貫かれたものだった。法相《ほつそう》学の伝習という主目的のほかにいま一つ、日本への、経典の請来《しようらい》という大目標をかかげて、わき目もふらず二十数年、ひとすじに刻苦しつづけたのである。  落ちこぼれたのではない。忘れられたのでもなかった。戒融の活動は日本の朝廷や宗教界が今なお、こぞって注目していたし、経典の購入に必要な物代《ものしろ》も潤沢に送られてきていた。げんに天平勝宝四年に、藤原|清河《きよかわ》を大使とする遣唐使一行が入京したさいも、 「もはや蒐集《しゆうしゆう》はそのくらいでよかろう。われらの船で帰国せぬか」  誘われた。戒融はしかし、 「まだまだ目標に達してはいません」  はねつけて、さらに十年、唐国に居残ったのだ。  購入できないものは借覧し、写筆させてもらう。必要な経巻を珍蔵している寺院があると聞けば、どんなに遠方だろうと出かけて行き、寝るまも惜しんで写し取った。 「聖典は仏の教えの基軸《きじく》をなすものだ。一巻でも多くもたらせば、それだけ多数の民心を仏の慈愛に浴させることができる」  との信念に支えられてこそ、継続しぬけた根気のいる作業であった。  汗の結晶は、だが二十五の唐櫃にぎっしり納められて、いまや運び出される日を待つばかりになっている。目に見えぬ光彩を放ちでもしているように、緒弓には唐櫃の山が眩《まぶ》しく見えた。     三  乗船の予定日が近づいた。  渤海国の首都に到着するとすぐ、仏国寺という寺の院子《いんす》を借りて仮りの宿舎に当てる一方、戒融師弟はあちこちに訊《き》き合せて船の算段に奔走し、都合のよい便船を見つけ出しておいたのだ。  それは渤海の使節を送り届けに来た日本船であった。三年前、日本から使節団が派遣されてきた返礼に、先年末、こんどは渤海国の答礼使が日本へ行き、このほどようやく日本の官船に乗って帰国してきたのである。  その船が、近く任務を終えて日本へもどるという。個人持ちの商用船などとは比較にならぬ大きな船だし、乗り組みも全員、日本人だと聞かされて緒弓はよろこんだ。 「幸先《さいさき》いいな宝翠、願ってもない船にぶつかったじゃないか。渤海人の浄敬さんあたりが、きっと良い伝手《つて》をたぐったのだろうよ」  船は竜源府の港で風待ちをしている。  戒融と浄敬は二十五個の唐櫃を荷車に積み、緒弓一家も身の回りの手荷物を背にくくってやがて仏国寺の宿坊を発《た》った。港に着き、晩秋の海に泛《う》かぶ船を目にした瞬間、緒弓の双眸《そうぼう》に涙が溢《あふ》れあがった。潮の香《か》の爽《さわ》やかさ……。鼻の奥がきゅーんと沁《し》みる。 (帰れるのだ。この船に身をまかせさえすれば、いよいよ故国へ……)  髭《ひげ》むじゃの水夫頭《かこがしら》は、 「えらいたくさんな櫃だなあ坊さん」  戒融の持ち荷に目をむいたが、決まりの謝礼のほかに手ばやく握らせた心附けが、効を奏したのだろう、 「命にも代えがたい経文です。濡《ぬ》らしたりせぬよう、よろしく保管ねがいます」  頼みに、ニンマリうなずいて、 「さあさあ早く船中へ入ってくれ。追い風が吹き出している。出帆はあす朝だよ」  一同を船底の小部屋に案内した。 「長官どのにご挨拶したいのですが、何とおっしゃるお方ですか?」  人を介して乗船許可を得ただけなので、まだ戒融も緒弓らもこの船の最高責任者に会ってはいない。 「板振鎌束《いたぶりのかまつか》という男さ。正七位下、左兵衛尉《さひようえのじよう》。いばり屋の軍人だよ。渤海使たちを送って忽汗城まで出かけたはいいが、呑んだくれたあげく、どうやら町の居酒屋で喧嘩《けんか》でもしでかしたらしい。足首を捻《くじ》いてね、輿《こし》で船まで帰って来やがった。船長室にいるよ。つれて行ってやろう」  緒弓はぞっとして、思わず、戒融の顔を見た。浄敬を撲り、あべこべに、こっぴどく痛めつけられて足を曳きずりながら逃げていったという日本人——。万一、それがこの船の指揮官だったらどうしよう……。 (肚《はら》をくくるほかあるまいな)  戒融も困惑を隠しきれない表情で、すばやい目くばせを送ってきた。挨拶にはわれわれだけが出向き、顔を知られている宝翠と子供たち、浄敬や王慶らは船底の小部屋から出さずに置こうとの、暗黙な合図であった。  だが、大きいとはいっても限られた船内だし、食事なども水夫らと一緒に広い胴ノ間《ま》でとらなければならない。鎌束の目に、いつまで妻子らを隠しおおせていられるかどうか、おぼつかなかった。  まずいことに、しかも外洋へ出て三日目から海が荒れ出した。舵師《かじし》も水夫も、死もの狂いで櫓《ろ》や帆綱に取りつき、船を新羅《しらぎ》の海岸線に寄せようとしたが、烈《はげ》しい風雨に翻弄《ほんろう》されて西南へ流され、やがて帆柱の一本が折れた。舵も破損し、舷側《げんそく》の板の破れから水が滲《し》み込んできたと聞いては、寝てもいられない。  足首をかばって杖をつきながらも、鎌束はごった返す甲板を走り廻り、 「積み荷を捨てろッ」  戦場声を張り上げた。 「船体を軽くしなければ沈んでしまう。惜しむなッ、荷は何によらず捨ててしまえッ」 「ご出家の唐櫃が二十五もありますぜ」  水夫頭の告げ口に、 「なにッ?」  血相かえて船底へ駆けおりた鎌束は、はじめて浄敬を認め、宝翠や王慶、子供らの存在に気づいて、酒乱特有の血走った両眼に、 「なるほど。そういうことか」  ギラと狂暴な光を走らせた。 「乗船を希望した者どもが貴様らだったとは、よくよくの悪縁だな」  そして、櫃の前に立ちはだかる戒融に向かって、咽喉《のど》一杯に吠《ほ》えたてた。 「どけッ御坊、その荷を海中に投じてくれる」 「ならん。二十数年に及ぶわしの命の凝《こご》りだ。何びとといえどもこの櫃には、指一本触れさせぬぞッ」 「そうか、嫌だというならば、弟子坊主と女こどもに死んでもらおう」  こんどは緒弓が腰をぬかす番だった。 「な、なにを言う、乱暴なッ」 「抗弁は許さんぞ、船中では長官のおれの命令こそ絶対だ。この女は貴様の女房らしいが、日本人ではあるまい。弟子坊主も唐人か渤海人、新羅人くさい顔つきをしておる。嘘《うそ》だというなら日本語を口にしてみろ。……どうだ? 喋《しやべ》れまい。妻が唐人なら餓鬼《がき》どもも混血児というわけだ。そうだろう?」  復讐《ふくしゆう》の好機をつかんだ快感に、鎌束の口許がゆるんだ。舌なめずりしながら彼は言った。 「めったに荒れたことのない渤海廻りの航路で、こんな手ひどい暴風雨に見舞われたのも、日本人ばかりの船中に異国人がまじっていたからだ。さあ水夫ども、命が助かりたかったらこいつらを犠牲《にえ》にして、竜神の許しを乞《こ》え」  難破寸前の急場である。それでなくてさえ迷信ぶかい荒くれ男たちが、異常心理に憑《つ》かれたのも無理はない。一も二もなく煽動《せんどう》に乗り、 「おう!」  いっせいに犇《ひしめ》き立った。泣き叫ぶ広成をひっ捕え志万女を担いで船底を走り出る……。 「やめてッ、何をするのッ」 「坊ちゃん、お嬢ちゃーん」  追いすがる宝翠と王慶も、髪を掴まれ、甲板に曳きずりあげられた。  鎌束の手から杖を奪って浄敬は暴れたが、三、四十人もの水夫どもに飛びかかられてはかなうはずもない。  逆巻く怒濤《どとう》めがけて子供らが投げ落とされ、女たち、つづいて浄敬が突き落とされた。絶鳴を曳きながら浪間に沈む家族らを目にして、緒弓は狂気した。 「待てッ、お前たちだけを死なせはせぬ。わしも行くぞッ」  手すりをおどり越えて、緒弓の全身もたちまち海中に没してしまった。  船底から戒融はよろばい出た。雨を浴び、しぶきを浴びて、濡《ぬ》れねずみの彫像さながら彼は甲板に居竦《いすく》んだ。恐怖と慚愧《ざんき》に大きくみひらかれた目は、惨劇を灼《や》きつけたまま瞬《まばた》きを忘れていた。  ——五人もの生命を呑み込んだにもかかわらず海は咆哮《ほうこう》を停《や》めなかった。船は西南へ西南へと流され、十五日目にそれでもかろうじて、隠岐《おき》の島に漂着した。満身|創痍《そうい》……。沈没しなかったのがふしぎだと島人たちは言い合った。  荷造りが厳重だったせいか唐櫃の中身も無事だった。戒融は大和の平城京へもどり、経巻を朝廷に献じたあと、鎌束の行為を告発した。公《おおやけ》の理由を借りて、私怨《しえん》をはらしてのけたのだと主張する戒融の言葉を信じ、司直は鎌束を捕縛して左京の獄にくだした。  戒融の姿が都から消えたのは、この直後である。功績に見合う僧位僧官が用意されていたはずの、日本での寺院ぐらしを捨てて、どこへ行ってしまった戒融なのか。知る者は一人もいなかった。  仏の愛を伝えるはずの経典は、それを惜しみ、一瞬、戒融がためらって、女こどもを見殺しにしたとたん、彼を苛《さいな》む鞭《むち》に変じた。  厖大《ぼうだい》な紙の鞭——。一生涯、その鞭は戒融の背に鳴りつづけ、彼の良心を打ちつづけるにちがいない。 (二十数年もの長年月、わしは唐国で、いったい、何をしてきたことになるのか?)  この、戒融のうつろな呟《つぶや》きを知る者もまた、一人としていなかったのである。 胸に棲《す》む鬼     一  その奇妙な洞窟《どうくつ》を最初に見つけたのは、息子の秋人《あきひと》であった。 「おや? なんだろう、こんなところに洞穴《ほらあな》がありますよ」  若々しく張りのある声さえ、吹きちぎられてしまいそうなほど岬《みさき》の突端は風が烈《はげ》しい。 「おあぶのうございますよ秋人坊ちゃま、崖《がけ》の下へなどお下《お》りになっては……」  劣《おと》らぬ大声で応じたのは、下婢《かひ》の稲手《いなで》である。母親の多慈女《たじめ》もこわごわ、絶壁の縁まで出て、 「浪しぶきがかかるじゃないの秋人、風邪《かぜ》をひいたらどうするの?」  気づかわしそうに下を覗《のぞ》きこんだ。 「大丈夫。母さんたちもおりていらっしゃい。訝《おか》しな洞穴なんですよ。奥のほうでチロチロ火が燃えているんです」 「まあ、火ですって稲手。気味が悪いねえ」 「なにかを祀《まつ》る祠《ほこら》でしょうか」 「あがっておいでよ秋人」  と、ふたたび声を投げたときには返事がなく、若者の姿もなかった。洞窟の中へはいりこんだらしい。 「困った子だこと。ちっとも近ごろは、わたしの言うことをきかないのだから……」 「行ってみましょうか、わたくしどもも……」  いたずらっぽく稲手が誘ったのは、五十女の老婢《ろうひ》をすら弾ませるほどあたりの風光が明るかったせいだろう。妖異《ようい》などとは結びつけようもないほど晩秋の日ざしはまぶしく、大気も澄んでいる。強い潮の香に肺の奥までが洗われるようだ。  筑前《ちくぜん》、志賀島《しかのしま》——。うしろには那《な》ノ津《つ》の波映《はえい》を負い、眼の前は半円を描いて一望に、外洋の燦《きらめ》きが拡がる島の北端である。水はそのまま壱岐《いき》・対馬《つしま》の海域をめぐって韓国《からくに》の沿岸にまで達している。弁当持参の散策にはまたとない日和《ひより》だし、景観のすばらしさでもあったのだ。 「そうね、おりてみようか」  多慈女もはしゃいで、 「でも、道があるかしら……」  ぐるりを眺め回した。 「ございますよ、ほら、細いけれど岩づたいにうねうねと……。秋人坊ちゃまもここからくだって行かれたのですわ」  軽い、布製の女沓《ぐつ》には、砂地よりもかえって石ころの道のほうが歩きよい。片手で裳《も》の裾《すそ》をつまみ、一方の手を下婢に曳《ひ》かせて、多慈女も愛息のあとを追った。  下までおりて見あげると、のしかからんばかり断崖は頭上にそそり立って、海面までの十数尺はなだれ込むように大岩小岩がかさなる荒磯《あらいそ》である。ずずーん、ずずーんと腹にこたえる重々しさで浪が吠《ほ》え、岩礁《がんしよう》に当って砕けるたびに、まっ白な泡の花がその上に咲いた。  海蝕《かいしよく》洞窟は思っていたよりもずっと大きく、大人が二、三人、立ったまま並んで入れるくらいの口を海に向かってあけている。中を窺《うかが》うと、なるほどはるか奥のほうに火の色が小さく見えた。 「秋人、いるのかい?」  呼びかける声も、 「いますよう、ここですよう、何やらお祀りしてあるんです」  答える声もが、洞内にすさまじい反響を起こす。  おっかなびっくり踏み込む拍子《ひようし》に、 「きゃッ」  稲手が悲鳴をあげたのは、冷たい水滴《すいてき》が首筋に落ちたからだった。  舟虫のたぐいだろうか、百足《むかで》に似たすばやい影がザワザワと音たてて濡《ぬ》れた壁面を走り交す。中に進むほど潮の匂《にお》いは濃さを増し、吐きけをもよおすほど腥《なまぐさ》くなった。大蛇《おろち》の棲みかにでももぐりこんだようで、それさえ薄気味わるいのに、 「ごらんなさい母さん、お厨子《ずし》の中を……」  秋人に指さされて透かし見た木像の、相好《そうごう》の恐ろしさ……。女たち二人は息を詰めて、思わずその場に立ち竦《すく》んでしまった。  神だろうか、仏だろうか。忿怒《ふんぬ》像であることはまちがいないし、しかもあきらかに女体であった。頭髪が逆《さか》だち、両眼は裂けて、玉《ぎよく》の嵌《は》めこまれた眸《ひとみ》が、灯明《とうみよう》のゆらぎににぶく光る。  一面|六臂《ろつぴ》の異形《いぎよう》だが、剣を掴《つか》み鈷《こ》を握る二臂のほかは、髑髏《どくろ》と経巻を持ち、残る両手で印《いん》を結んでいた。正規の儀軌《ぎき》の、どれにも当てはめようのない奇怪な尊像で、等身大よりやや小さい。彩色がなまなましく、そのくせあちこち剥落《はくらく》し、傷ついているのも無残だった。目をとめてよく見ると納めてあるのは厨子ではなく、廟《びよう》と呼んでもおかしくない屋根つきの、これも唐風《からふう》な、極彩色の御堂《みどう》なのである。正面に扁額《へんがく》が打ちつけてあり、「羅刹女之祠《らせつによのし》」の五文字が読めた。 「羅刹女!」  僧の説法を、多慈女は思い出した。 「夜叉神《やしやじん》と並ぶ毘沙門天《びしやもんてん》の眷属《けんぞく》でな、十二天中、八方天に棲《す》む悪鬼でござるよ。脚の迅《はや》きこと風にまさり、大力にものをいわせて人を取りひしぐ。人肉を啖《くら》うとも仏典に説かれておる魔物じゃ。またの名を速疾鬼《そくしつき》——。男の形をかりて現ずるときは獅子《しし》に乗り、甲冑《かつちゆう》を帯《たい》し、女身に変ずれば羅刹女となる。陰陽師《おんみようじ》どもが大凶と忌《い》み嫌うのも、羅刹日のことでござるよ」  一刻も、そんな魔神の祠にぐずぐずしてはいられない。 「出ましょう秋人、やはりむやみに、為体《えたい》の知れぬ洞穴などを探ってはいけなかったんですよ」  あわてて踵《きびす》を返しかけたとき、入り口に人影が動いて、 「ここにおられましたか」  白衣の老人がひとり、杖にすがりながらはいって来た。島人《しまびと》の氏神《うじがみ》……。志賀海神《しかのわたがみ》を祀る社《やしろ》の老|禰宜《ねぎ》だったのである。 「おもどりが遅いのを気づこうてな、迎えにまいりましたのじゃよ」 「それはありがとうぞんじます。うっかりこの洞窟に迷いこみ、羅刹女のご相好に慄《ふる》えあがって、いそいで今、退散しかけたところでした」 「やッ、神廟《しんびよう》の扉をお開けなされたな」  禰宜の驚愕《きようがく》に、多慈女はもっとびっくりして、 「もとから開いていたのではないのですか」  うしろを振り返った。 「いいえ、閉まってたんですよ母さん、中が見たくて、わたしが扉を開けたんです」  秋人の言葉が、取り返しのつかぬ冒涜《ぼうとく》とも感じられて、 「なんということを……」  多慈女は慄えあがった。 「秘仏かもしれないものを、許しも得ずに開けるなんて……。罰が当ったらどうするつもり?」  このまに手ばやく扉を閉じてしまった老禰宜が、親子の不安をなぐさめるつもりか、 「ご心配なさりますな」  笑顔で言った。 「かくべつ秘仏というわけではござらぬ。なにぶんにもお姿おそろしき荒神《あらがみ》ゆえ、沖を通る舟子《ふなこ》どもが憚《はばか》りましてな、廟中ふかくお隠ししておいてほしいとせがみますのじゃ」  コツコツと杖の音を響かせながら出て行きかける背について、三人も小走りにぶきみな祠から離れた。  ——外光の下へ出てみれば、もと通り抜けるほど秋の空は青い。金縛りにでもあったように心身がこわばった洞内での体験が信じられないくらい爽《さわ》やかな眺望のひろがりだった。  多慈女も稲手もが、ようやく気力を恢復《かいふく》したし、まして十九歳の秋人はたちまち、もとの溌剌《はつらつ》さを取りもどして、 「なぜ、こんな海ばたに羅刹女などが祀られているんでしょうなあ、禰宜どの」  疑問を口にした。 「羅刹女ではなく、竜女《りゆうによ》じゃとも言い伝えられておりますよ」 「あ、竜神の眷属ですか。それならつじつまは合いますね」 「さよう。われらのお仕えする社《やしろ》の祭神は、志賀海神……。洞窟におわす女神《じよしん》は、そのおん娘の竜女じゃとの伝承が、おそらく正しいのではござりますまいかな」  いずれにせよ、姿態・形相《ぎようそう》の恐ろしさからすれば、鬼女であることにまちがいない。 「坊ちゃま、お気をつけあそばせ。あなたのような美男が、しかも手ずから神廟の扉をあけたりなさると、女の荒神さまに懸想《けそう》されますよ」  冗談口が叩けるまでになったのは、稲手がそれだけ元気づいた証拠であろう。 「そうとも。母さんが嫌っているのも意に介さず、夏羽《なつは》みたいな娘にのぼせてどうしても結婚したいなどと言い張るようなら、羅刹女でも竜女でもかまわない、お前を女神《おんながみ》さまの花婿に差し上げてしまいますからね秋人」  この、多慈女のきめつけも、むろん冗談だが、言い終るか終らないうちに日ざしが不意に翳《かげ》った。腥《なまぐさ》い風が洞窟の中からどっと吹き出し、意志を持つもののように一行のあとを追う。  多慈女は立っていられず、領巾《ひれ》を飛ばされそうになりながら岩かどの一つにしがみついて、 (ああ、しまった)  かたく、くちびるを噛《か》んだ。暗い、湿っぽい穴の奥から脱け出して、うららかな陽光の下にもどれた一瞬の解放感から、つい油断してしまったが、 (ここはまだ、竜女のしろしめし給う神域……。不謹慎な戯《ざ》れごとなど厳《げん》につつしむべきだった)  と、しきりに悔やまれた。 「や、あぶない」  老禰宜の声に、だから多慈女は吐胸《とむね》を突かれて、 「どうしたの秋人、何かあったんですか」  急な登り勾配《こうばい》を夢中で駆けあがった。  ひと足先に、崖《がけ》の上へ出たはずの秋人が、雑草だらけの地べたに倒れ、禰宜が杖を捨てて助け起こそうとしていた。 「なんでもありませんよ母さん、禰宜どのも……。枯れ草につまずいてころんだだけです。自分で起きられますさ」  てれくさそうに言い言い、足首にからまった草の蔓《つる》を秋人ははずしかけた。 「いけません坊ちゃま、それは蔦漆《つたうるし》です。毒草ですよ、さわるとかぶれます」  大声で制止したのは、いちばんあとから登って来た稲手だった。 「すみません。拝借させてください」  走り寄って禰宜の手から杖を受け取り、稲手は蔓を除きにかかった。 「わたしはわけて、この草の毒に弱いんです。ほら、じかには触れもしないのに、もう手の先がむず痒《がゆ》くなってきましたよ」 「人によるんだね、わたしは足にからみつかれながら何ともない。杖ではだめだから脇へおどき稲手、手でむしり取るよ」  その秋人の指の力を拒《こば》みでもするように、蔦漆の蔓は纏《まつ》わりついて抵抗した。紅葉し、血のしたたりさながら葉は色づいている。そこにもまた、若者を行かせまいとする鬼神の執念を見た気がして、多慈女はぞっと鳥肌《とりはだ》立った。     二  那《な》ノ津《つ》の宿舎に帰りつくころには、しかしいくらか気分は持ちなおしていた。召使や、泊りがけで見送りに来てくれている知人など、屈託なげな幾つもの笑顔に取りかこまれ、 「いかがでした? 志賀島の景色は……」 「外海《そとうみ》の眺めが、すばらしかったでしょう」  くちぐちの問いかけに答えるうちに懸念《けねん》が薄れて、多慈女も稲手もが、 「岬《みさき》の崖下で、怖《こわ》いお像を見ましたよ」  洞窟での見聞をさりげなく語り分けられるまでになった。 「ああ、羅刹女の祠《ほこら》ですね」  うなずいたのは、地もとの地理にあかるい筑前の国司《こくし》である。 「あのあたりは勝馬《かつま》の里とよばれ、漁師だの海女《あま》などの多いところです。供物《くもつ》や灯明を捧げて彼らは宝前《ほうぜん》に豊漁を祈るようですが、特に神威あらたかとも聞いてはいません。ささやかな俗信の対象……。村の神さまですな」 「羅刹女といえば鬼神でしょ? うっかり洞窟になどはいりこんで、もし祟《たた》りでも受けたらどうしようと心配しいしいもどって来たのですよ」 「お気づかいなさいますな。鬼などというものは、ほかにあるのではない。われわれめいめいの心の中、胸の奥処《おくが》に潜《ひそ》んでいて、折りあるごとに躍り出すのです。邪欲《じやよく》や迷妄《めいもう》、執着《しゆうじやく》や害意……。人をそこない、自分自身までを不幸におとしいれるそのような心の働きをこそ、鬼と考えてよいのではありますまいかな」  事もなげに説破《せつぱ》されると、 「ほんとに、おっしゃる通りですわ」  多慈女の気持はいよいよ軽くなって、 「お酒はたっぷり用意してありますか? 夏羽《なつは》はどこ? お料理の仕度もととのっているでしょうね」  継娘《ままむすめ》や召使たちを指図し、客人たちへの今夜のもてなしに目を配った。  大宰少弐《だざいのしように》に任ぜられて、つい先ごろまで大宰府に勤務していた高梨継麻呂《たかなしのつぐまろ》という者の、多慈女は正妻である。長男の秋人は、彼女を母として生まれた跡取りの嫡子《ちやくし》……。そのほかに娘が一人と息子が一人いる。  娘の夏羽は、桑手《くわで》という婢《はした》あがりの側女《そばめ》が先夫との間に儲《もう》けた連れ子だが、男の子の冬人《ふゆひと》は桑手が継麻呂の寵愛《ちようあい》をうけるようになってからその腹に誕生した高梨家の次男坊だ。  桑手は冬人を生むとまもなく、産後の肥立《ひだ》ちをこじらせて亡くなってしまったので、赤児は異父姉の夏羽と、桑手とはもと仲よしの朋輩《ほうばい》だった婢仲間《はしたなかま》の、稲手の手で育てられた。  いま秋人は十九歳。夏羽はそれより五つ年かさの二十四歳。そして冬人は、十六の若者に成長している。多慈女にすれば、可愛いのは言うまでもなく腹を痛めた秋人だった。  冬人は、まがりなりにも夫の種なのだから受け容《い》れられるとしても、夏羽までを、 「秋人の同胞《はらから》……」  と見ることには、つねづね許しがたい感情が疼《うず》いている。つまりは嫉妬《しつと》である。  奴婢《ぬひ》階層の者には珍らしく、桑手はとびぬけた美人であった。だからこそ謹直な継麻呂も、その色香にふと、迷ったのだろうし、前の奉公先の主人もまた、桑手の柔肌《やわはだ》に手をつけて夏羽を生ませたのだと思われる。  法律では両親のどちらかが奴婢ならば、生まれた子も、奴隷《どれい》の身分に固定されてしまうことになっていた。だから法の規則に従えば夏羽も冬人も、高梨家の息女、息男《そくなん》に成り上ることは不可能なのだが、継麻呂は惜しげもなく財を使い、関係要路に手を回しなどして戸籍を買い取り、二人につながる母方の血を、きれいに切り離してやったのであった。 「冬人はともかく、他人の子の夏羽に、そこまでのご配慮はご無用でしょうに……」  と多慈女が不快がったのは、亡母に似て夏羽が美しく、どうやらこの義理の姉を、秋人が好いているらしいと知ったからだった。 「いけませんよ秋人、母は許しません」  折りにふれて息子を叱ったのは、これも嫉妬の変型にちがいない。桑手には夫を盗《と》られ、夏羽には息子を盗られる……。そんな屈辱は忍べなかった。 「血のつながりこそ無くても、仮りにも姉弟《きようだい》ですよ。それに夏羽は、五つもあなたより年上ではありませんか。いくらでも他家のりっぱな姫ぎみと婚姻ができるのに、選《よ》りに選って手近な、しかも母親が婢《はした》、父親もあかの他人だった夏羽などと一緒になりたがるなんて、よっぽどあなたももの好きね」  この叱言《こごと》に、もし不服顔をして、 「腹ちがいの兄弟姉妹が結婚する例はざらですし、伯父と姪《めい》、伯母と甥《おい》、いとこ同士の結びつきだって珍らしくはない現在、父も母もちがう夏羽とわたしが夫婦になって、なぜ悪いのでしょう」  秋人がそんな反問など口にしようものなら、一生涯、翼の下にかかえこみたがっている愛息に、手ひどく裏切られでもしたように取り乱して、多慈女は泣き悶《もだ》えるにきまっていた。  自慢の息子なのだ。目もとの涼しい、立ち居に品のある貴公子で、夏羽への思慕さえ別にすれば何ごとであれこれまで、母の意に逆らったためしのない温順な生まれ性《さが》である。他目《はため》にも異常なくらい多慈女が秋人への愛にのめりこみ、夏羽の存在を嫉《ねた》んで敵意に近い心理を抱くのも、母性の痴愚《ちぐ》からすれば当然といえよう。  ——大宰府ぐらしは四年に及んだ。「遠《とお》の朝廷《みかど》」と呼ばれている賑やかな都城《とじよう》での明けくれは、交易船の出入りひとつにさえ異国情緒が溢《あふ》れて、それなりに楽しかったけれど、一年ましに夏羽への傾斜を深めてゆく息子との、愛憎の葛藤《かつとう》が、多慈女にはどうにもやりきれなかった。 (なんとかしなければ……)  決意にも似た思いを固めはじめていたやさき、夫の継麻呂に転勤の命令がくだった。 「五位に叙《じよ》し、式部大丞《しきぶだいじよう》に任ず」  との令達である。栄転だし、 「即刻、参りのぼれ」  とも言われたので、継麻呂は後事いっさいを妻の采配《さいはい》にゆだね、そそくさ単身、平城京《へいじようきよう》さして先発して行ってしまったのだ。  荷造りだけでも大ごとだった。多慈女は召使たちを指揮して移転の準備に没頭し、一カ月たったいま、やっと官舎を引き払って那ノ津まで出て来たのである。  船はすでに岸壁につけられ、見送りも多数つめかけたが、 「風の具合がよろしくございません。二、三日お待ちくださるうちには順風が吹き出しましょう」  と船頭が言う。送りの人々にはそのあいだ、泊まってもらい、 「北九州の風物とも、お別れだから……」  ということで、今日は一日、秋人と稲手をつれ、志賀島まで多慈女は遠出したのであった。  島といっても、本土とは砂嘴《さし》でつながり、潮が満ちてくると一部が水中に没する。砂は白く、青々と並木の松が茂って、「海の中道《なかみち》」とよばれる砂嘴の遠望はたおやかだが、ようやく二日後、出帆《しゆつぱん》に漕《こ》ぎつけたときも、船中からその全容はよく見えた。 「少弐どのによろしく」 「どうぞ、みなさまがたもお達者で……」  にぎやかに別れの挨拶が交され、多慈女と三人の子供たちが召使ともども船に乗り込むと、すぐさま纜《ともづな》が解かれ、錨《いかり》があがった。  ゆっくり那ノ津の港湾を船はすべりだす。町家《まちや》の炊煙が遠ざかり、 「行く手、左に近づいてきたのは残島《のこのしま》、右に現れたのが志賀島……。はるかうしろに、こんもり盛りあがって見えるのは箱崎の社《やしろ》の森でござります」  船頭の指さしを、ものめずらしく聞くうちに船は外洋へ出かかった。船足はのろい。ひどく時間もかかった。大小の漁船・商船を躱《かわ》しながら湾内の航路を進むうちに、日は西にかたむきかけ、煤《すす》の塊りに似た黒雲が洋上を薄く覆いはじめた。 「風向きが変ったぞ」 「逆風だッ、流される。櫓《ろ》を押せッ」  舟子《ふなこ》どもの喚《わめ》きをあざ笑うように雲は見る見る厚みを増し、征矢《そや》でも射込む勢いで雨滴を叩きつけだした。うねりが高まり、船ははげしく揺さぶりたてられる。婢《はした》たちの口から悲鳴が炸《はじ》けた。夜の暗さに変じた空を稲妻が裂き、すさまじい雷鳴がとどろく。青白い閃光《せんこう》の中に、そそり立つ絶壁が浮かびあがり、多慈女の視線がそれを捉えた。 「あッ」  恐怖の目を、彼女はいっぱいに瞠《みひら》いた。いつのまにか船は志賀島の北端にさしかかっていたのである。火成岩の巨大な崖——。舷側《げんそく》と直角にそれが見えたのは、禍々《まがまが》しいあの魔神の洞窟も、口をこちらに、まっ直ぐ開いているということにほかならない。 (もしや?)  多慈女の戦慄《せんりつ》を読み取りでもしたように稲手が濡れ身をすり寄せて来た。 「この荒天は、ただごとではありません。羅刹女か竜女かぞんじませんが、ともあれ祠《ほこら》の主《ぬし》が、秋人さまのご帰洛《きらく》をとめようとしているにちがいございませんよ」 「なにを言うの稲手、めったな口走りをしないでおくれ」 「いいえ、災《わざわ》いの種は、母のあなたがお蒔《ま》きになったのです。親の申しつけにそむく子など魔神の花婿に差しあげてしまうと、たしかに洞穴の前であなたはおっしゃいました」 「冗談です。だれが本気でそんなことを……」 「神は真実と受けとめられたのでしょう。そして是《ぜ》が非でも、秋人さまを寄こせと仰せられているのです。時ならぬ大荒れは、神慮の現れとぞんじます」  風雨の猛《たけ》びに消されまいとして、稲手は声を張りあげる。まだ湾内を出ないうちから船酔いに襲われ、船底の一室に籠《こも》りきってしまった秋人のほかは、夏羽も冬人も他の奴婢《ぬひ》たちもみな、ひとかたまりに多慈女のそばに集まっていたから、やりとりは残らず彼らの耳にも入った。 「秋人さまが、鬼女に魅入《みい》られたと?」 「ま、まさか……」 「いや、あることかもしれぬ。魔神でも女なら、凜々《りり》しい若者に思いをかけたとて不思議はないからな」  こそこそささやき合いながら事の成りゆきに固唾《かたず》をのんだ。 「莫迦《ばか》な……そんな、莫迦な……」  両腕を揉《も》みしぼって多慈女は呻《うめ》いた。 「神が人に恋着《れんちやく》するなんて……信じられません。秋人を寄こせとは、どういうこと? え? 稲手、竜女はあの子を、どうなさるおつもりなの?」 「申し上げにくいことですけど、海に投げ入れよと仰せられているのではありますまいか。遣唐使《けんとうし》船なども持斎《じさい》とかいって、竜神の供物《くもつ》に捧げる犠牲《いけにえ》を一人かならず乗せてゆくそうですわ」 「秋人を、殺せですって!?」 「人間の肉身とではなく、竜女はその霊と婚《まぐわ》いなさるのでしょう」 「知りませんッ、聞きませんッ、あの子を死なせるくらいならわたしが身を投げますッ」  騒ぎに気づいて船頭もとんで来たが、 「あのご神祠《しんし》の前で約束されたのはまずかった」  嘆息した。 「若さまを婿に差し上げるといったん口にしたのなら、嫌でもその通りなさらなければいけません。船中幾十人もの命には代えられぬ。おあきらめなされてくださりませ」  このまにも荒れはいよいよ烈しくなり、船は巨浪に翻弄《ほんろう》されて今にも転覆《てんぷく》しかけた。 「助けてえ」  下婢たちが泣き声をあげる。髪を乱し、目を光らせて、 「秋人さまをここへ曳《ひ》っぱり上げてこようよ皆の衆」  仁王立ちに突っ立った稲手の相貌《そうぼう》は、それじたい鬼女が乗り移りでもしたように凄《すご》かった。 「船頭さんも言う通り若さまの捲《ま》き添えをくって、わたしらまでが海の藻屑《もくず》にされてはたまらない。おきのどくだが、観念してもらおうじゃないか」 「待ってくれ稲手、みんなもどうか、兄さんに手を出すのはやめてくれッ」  と、立ちかかる奴婢どもの前に、このときまろび出たのは、夏羽には同母異父の弟にあたる冬人であった。     三 「海へは、わたしがはいろう。母親こそ今は亡き桑手どのだが、わたしも高梨継麻呂の息男《むすこ》だ。秋人兄さんとは目鼻だちが似かよっている。わたしを身代りに立ててほしいッ」 「冬人おまえ、狂ったの?」  夏羽が声をひきつらせた。 「言うに事欠いて、身代りだなんて……。たのむから気を鎮めてちょうだい」 「狂ってなんかいないよ姉さん。わたしは正常だ。だからこそ判断したんだ。自分の命と引き替えに姉さんの苦しい恋を、ぜひとも実らせてあげようって……」 「なんですって!? 何を言いだすつもりなの弟」  それには答えずに、 「お願いです義母《かあ》さん」  多慈女の膝先《ひざさき》へ、冬人は突っ伏した。 「姉の夏羽と、秋人兄さんの結びつきを認めてやってください。二人は愛し合っています。わたしの目にさえ痛々しいほどに、おたがいを大切なものに思い合っているのです。でも……義母《かあ》さんの思惑《おもわく》をはばかって、ことにも姉は、自分の気持を抑えつけつづけてきました。見るからに辛《つら》そうでした。わたしは哀れでなりません。秋人兄さんの代りに捨ててのける命……。その償《つぐな》いに二人の結婚が実現するなら、惜しいことも怕《こわ》いこともないのです。どうぞ義母さん、死に臨んでのわたしの願いを聞き届けてくださいッ」  言い終ると同時だった。やにわに冬人は跳《は》ね立ち、舳《みよし》に向かって走った。 「やめて弟ッ」 「いけませんッ、短気を起こしてはいけませんよう冬人坊ちゃまッ」  むしゃぶりつく夏羽の手、稲手ら奴婢どもの手を、突きのけ|※《も》ぎ放しながら船べりに足をかける……。刹那《せつな》、電光がその姿をくっきり隈《くま》どり、雷鳴《かみなり》とは信じがたいほどの轟音《ごうおん》がほとんど同時に、船を押しひしぐ勢いで鳴り渡った。 「わッ」  だれもがたじろぎ、目を閉じて倒れた。そして起き上ったとき、若者の影は船中のどこにもなかった。 「冬人ッ」  舷側によろめき寄って身を乗り出した夏羽の目が、まっ黒なうねりの合間に、ぽかっと浮きあがった物体をとらえた。冬人の蒼白《そうはく》な顔だった。……が、たちまちそれも浪に呑《の》まれて、 「弟ッ、ああ、弟……」  夏羽の悲痛な絶叫だけが人々の耳を搏《う》った。水夫らは櫓を捨て、楫《かじ》を捨てて、志賀島の方角に居並び、何やらいっせいに唱《とな》えごとをつぶやきはじめた。 「どうしたの? 何かあったんですか母さん」  さわぎをいぶかって、秋人が足もとをふらつかせながらあがって来た。 「おもどり秋人ッ、ここへ来てはなりません、船底へおもどりッ」  段梯子《だんばしご》の上に立ちはだかって、愛息の幅広な袍《ほう》の胸を多慈女はしゃにむに押しもどした。  ——ただの暴風雨と、彼女は思いたかった。また、じじつ、運わるく偶発的な荒天《しけ》に巻き込まれた……それだけのことにすぎなかったのかもしれないのである。  ともあれ、冬人の投身直後から少しずつ風波は収まりはじめ、やがて雲の切れ目にチカッと茜《あかね》の燃えが覗《のぞ》いて、船は追い風に乗った。そしてそのまま順調な航海がつづき、瀬戸の内海《うちうみ》を東へと進んで、難波の津に上陸……。いくばくもなく大和《やまと》の平城京へ帰りついたのであった。  冬人の死は、難波から早馬の使いを先発させて高梨継麻呂に知らせておいたが、その死と引き替えに彼が何を望んだか、交換条件まで報じてはいなかった。  妻の多慈女から、 「じつは冬人は、夏羽と秋人の恋を許してやってほしいと願って、みずから犠牲《いけにえ》の役を買って出たのでした」  と聞かされ、 「それは困ったなあ」  われしらず継麻呂は、眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んでしまった。 「じつは多慈女、夏羽に縁談が起こっておるのだ」 「縁談? どなたとですか?」 「藤原|武智麿《むちまろ》公のご嫡男《ちやくなん》、豊成卿《とよなりきよう》との間にだよ」 「まあ、藤原|南家《なんけ》の御曹子《おんぞうし》が、夏羽を?」 「身に余る光栄ではないか」 「信じられませんわ。どうしてまた……」 「見初《みそ》められたのだそうだ。わしの大宰府|赴任《ふにん》が決まり、一家をあげて西下《さいげ》の用意をしていたころ、興福寺《こうふくじ》の塔ができあがって落慶供養《らつけいくよう》がおこなわれたろう?」 「はい。興福寺は藤原ご一門の氏寺《うじでら》……。豊成卿にはおん叔母に当る光明《こうみよう》皇后が、亡きご両親の追福を念じて境内にお建てあそばした五層の大塔でござりましたね」 「怱忙《そうぼう》のさなかではあったが、他の貴族同様、我が家もお招きにあずかって家族全員が盛儀に列席した。豊成卿はこのとき、夏羽の面《おも》ざしに目をとめられたらしい」 「九州|下向《げこう》の前というと、あの娘《こ》が十九か、二十《はたち》のころですね」 「娘ざかりだ。以来、どうしても忘れることができず、わしの帰京を待ちのぞんだが、とうとう痺《しび》れを切らして、父の武智麿公に泣きついたのだそうだ」 「では、あなたのこのたびのご栄転は……」 「そうなのだよ多慈女、夏羽を娶《めと》りたい一心から豊成卿が裏面工作して、式部大丞の空席にわしを押し込んでくれた結果さ」 「そのご恩を、仇《あだ》で返すわけにはまいりませんね」 「そういうことだ。いまさらどの面《つら》さげて、『夏羽は倅《せがれ》の秋人と恋仲でした』などと、豊成卿に言上《ごんじよう》できよう」 「落胆《らくたん》なさいますわ」 「落胆どころか、立腹なさるよ。藤原四家の中でも南家は威勢並びない嫡統《ちやくとう》の家すじ……。時の后《きさき》を妹に持つ武智麿公に睨《にら》まれでもしたら、それっきりだ。官吏としてのわしの出世も五位の式部大丞で止まってしまうだろう」 「あべこべに、夏羽を豊成卿の室《しつ》として奉《たてまつ》れば……」 「前途は洋々と展《ひら》ける。飛ぶ鳥おとす勢家《せいか》と、姻戚《いんせき》の縁を結ぶのだからな」 「夏羽一人の幸せばかりか、そうなれば秋人の将来まで大盤石《だいばんじやく》となりますわね」 「しかるべく官途につき、いずれとんとん拍子に昇進しだすにきまっている」  冬人の自殺からこっち重く塞《ふさ》がれていた胸の中が、にわかに明るむのを多慈女は感じた。芯《しん》からの悪女ではけっしてない。我が子への盲愛に目がくらんでいるだけだから、冬人の臨終《いまわ》の言葉は枷《かせ》となって、多慈女を締めつけつづけていたのだ。死をもって贖《あがな》われた遺託《いたく》……。それを破る勇気はない。夏羽の体内になかば流れる奴隷の血を、どれほど卑《いや》しみ、忌避《きひ》したにせよ、最終的には、 (仕方がない。秋人と夏羽の仲を認めてやるほかあるまい)  あきらめかけていた多慈女だったのである。  だが、帰邸してみると状況は一変していた。二人の結びつきに、夫の継麻呂が反対の意思表示をしているではないか。官界に身を置く男にとって、出世の停止は死刑の宣告と同じであった。 (藤原一族の、権勢のおこぼれにあずかりたい。へたに立ち廻って睨まれでもしたらおしまいだ)  夫がそう考えるのも、多慈女には至極《しごく》、無理からぬことに思える。  大義名分ができたのだ。夏羽を豊成の閨房《けいぼう》へ送りたがっているのは継麻呂なのだ。娘であり、息子である以上、まさか夏羽と秋人も、父を苦境に立たせるようなことはすまい。 (よかった。冬人への負い目に悩まずに、これですらりと二人の仲を引き離すことができる)  そう思うとつい、多慈女の口許は、うれしさにほころびてしまう。  夫の寵《ちよう》を受けて子まで儲《もう》けた桑手への憎しみ……。その母の美貌《びぼう》をそっくり引きついで、秋人を虜《とりこ》にしてのけた夏羽に、どうしても多慈女は、好感など持ちえなかった。出自《しゆつじ》への蔑視《べつし》も、頑《かたく》なに抜けない。 (あのとき冬人が身代りを買って出てくれなければ、いきり立った奴婢や舟子どもに、海中に突き入れられていた秋人だったかもわからない)  感謝は充分しているものの、やはり、だからといって快く夏羽の恋を許容する気にはなれないのである。 (もっとましな、良家の娘さんはたくさんいるのに……)  と秋人の迷いまでが恨めしく、口惜《くや》しい。それなら夏羽以外の女を、素直に嫁に迎えられるかと言えば、これもあやしかった。嫉《ねた》みの根は同じなのだ。 (だれにも秋人を渡したくない)  いつまでも独り占めしていたいという母性の妄念《もうねん》に曳きずられているかぎり、息子の結婚によい顔などできるはずはないのだが、多慈女自身、そこまで自分の本心を瞶《みつめ》るのは嫌だった。当面いそがなければならないのは、藤原豊成のもとへ夏羽を送り込んでしまうことである。  事は隠密裡《おんみつり》に運ばれ、継麻呂がみずから付き添って娘を届けた。秋人は何も知らず、当の夏羽にすら事情は告げられていない。 「どうしたんだろう、ここ二、三日、姿を見かけないけれど……」  秋人が不審顔をしだしたときには、すでにとっくに夏羽の身柄《みがら》は豊成邸に移されていたのであった。     四 「おまえたち、知らないか? 夏羽さんがどこへ行ったか……」  稲手をはじめ、召使のだれに訊《き》いても、 「さあ」  首をかしげるばかりで要領を得ない。 「わたしらにも、じつは合点《がてん》いかないんです。きらびやかに装《よそお》われて夏羽さまは輿《こし》でお出かけなさいました。ご主人さまが騎馬《きば》でご一緒なさったのをお見送りした者はいますが、ご帰邸あそばしたとき輿はからっぽ……。お主《あるじ》はお一人でもどられたのです」 「変じゃないか。輿舁《こしか》きどもは何と言っているんだ?」 「藤原豊成卿のお屋敷へうかがったと申しております。そこで夏羽さまをお下《おろ》しし、お主のお供をして空輿《からごし》で帰ったのだと……」 「藤原邸だって!?」  秋人の顔が青ざめた。 「用向きは何なのだ。なんで夏羽さんは豊成卿のところになど出かけたんだ。幾日も若い娘を引きとめておくなんて訝《おか》しいよ」 「腑《ふ》に落ちないなされかただって、わたしらも噂《うわさ》し合っていたのですよ」  召使らの群れから進み出て、稲手が臆測《おくそく》を口にした。 「もしかしたら夏羽さまは、これっきりおもどりなさらないのではないでしょうか。豊成卿に召されて夫人の列に加えられたのだとしたら、もはや手のとどかぬ高嶺《たかね》の花です」 「ば、ばかなッ。それじゃあ冬人の死はどうなる?」 「そうですとも!」  日焼けした稲手の頬《ほお》を、大粒の涙がまろび落ちた。 「まったくの犬死です。浮かばれますまい。おきのどくに……」  血相かえて秋人は父親の居間へ駆けつけた。同じ床《ながいす》に倚《よ》って多慈女もくつろいでいたが、夫婦が賞味している舶載《はくさい》の、香り高い蘭《らん》の茶は、豊成邸からの贈り物であった。 「秋人、ちょうどよいところへ来ました。珍らしい飲みものを頂いたので、あなたを呼ぼうと思っていたところなのですよ」  母の言葉には耳もかさず、 「ひどいッ、ひどいじゃありませんか父さん、よくも夏羽を、藤原家へなどつれて行けたものですね」  継麻呂を、秋人はなじった。 「なぜ、それならそうと、事前にわたしに打ちあけてくださらなかったんです? 夏羽は承知したんですか? 納得《なつとく》ずくで豊成卿のところへ出かけたんですか?」 「いや、何も知らん。高官への挨拶廻りに、父について出かけるのだと思いこんでいたらしい」 「それではまるで、騙《だま》し討ちじゃありませんか。泣いているでしょう今ごろは、きっと……。かわいそうに……」 「わしはな秋人。お前にも夏羽にも、よかれと考えたからこそ決断したのだ。むろん、わし自身のためでもある。藤原南家の心証を害したらこの先どうなるか、お前ももう子供ではないのだから重々わかってよいはずだ」 「冬人は、わたしと夏羽の恋の成就を願って荒海に身を投じました。船酔いに責められて臥《ふ》せっていたので、たまたま目撃はしなかったが、そのときの弟の声、両眼にたぎったであろう涙の熱さを思いやると、わたしは胸が張り裂けそうになります。我が子の、死を賭《と》しての遺託を、父さんはご自分の出世のために紙屑《かみくず》さながら踏みにじって平気なんですか? 人ひとりの命の価値は、そんな軽々しいものではないはずでしょう?」 「黙れッ」  父としていちばん疚《やま》しい点を衝《つ》かれ、継麻呂は逆上した。 「きさま、親を批判する気かッ。冬人への哀憐《あいれん》の思いは、このわしこそ、だれにも増して深いわ。まだ官途にもつかぬ乳臭児《にゆうしゆうじ》のぶんざいで、小ざかしい舌《した》を叩《たた》くなど許さんぞッ」  怒声とともに茶を満たした錫《すず》の容器が飛び、秋人の肩に当って石床《いしゆか》に転がった。 「お詫《わ》びしなさい秋人、父さまに向かって何という口をきくの、お前は……」  多慈女のおろおろ声に押しかぶせて、 「母さんも母さんだ」  劣らぬ大声を秋人はふりしぼった。 「夏羽のどこがお気にさわるのです? 生《な》さぬ仲の両親にまめまめしく仕え、奴婢の末にまで慕《した》われている気立ての優しい娘ではありませんか」 「奴婢に慕われている?」  こんどは多慈女がカッとのぼせる番だった。 「おめでたいのね秋人。夏羽が召使たちに人気があるのは、母親が婢《はした》の出だからですよ。仲間意識から彼らは桑手の忘れ形見に肩入れしているのです。したしい朋輩《ほうばい》だった稲手には、まして油断できません。すんでのことにあの女はあなたを殺そうとしたのですからね」 「わたしを殺す?」 「そうですとも。志賀島の外洋で荒天《しけ》に襲われたのを奇貨として、稲手は偶然の災難をさも神意であるがごとく言い立てた。そして奴婢や水夫らの恐怖心を煽《あお》り、あなたを魔神の犠牲《いけにえ》にしようと企《たく》らんだのです。冬人が投身しなかったら、逸《はや》り立ったあらくれどもの手でまちがいなくあなたは海に投げこまれていたはずですよ」 「なぜ、稲手はそのような害意を……」 「わかりきった話ではありませんか。正室腹のあなたを亡きものにして、冬人に高梨家の財や家督《かとく》を継がせたかったからです。夏羽とは父が違うけれど、冬人の母親は夏羽同様、桑手ですもの、稲手ら奴婢どもは、あなたより冬人を贔屓《ひいき》してます。姉思いなその冬人が止めるまもなく身代りを買って出て、自殺してしまったのは、大きな目算《もくさん》ちがいでした。『冬人坊ちゃま、なぜ早まったことをしてくれたのだ』と稲手が狼狽《ろうばい》し、足摺《あしず》りしていた有様をあなたに見せたかった。夏羽の嘆きに劣りませんでしたよ。筑前国司が『鬼女は魔界になど棲《す》むものではない。めいめいの胸に宿る邪念こそ、その正体なのだ』とおっしゃっておられましたけど、稲手のあの日の形相《ぎようそう》にまさしくわたしは、鬼女の残忍さを見た思いでしたね」 「稲手の心情の中には、あるいはおっしゃるような企らみが隠されていたかもしれません。しかし夏羽にはかかわりないでしょう」 「ですが、嫡男のあなたを芟《のぞ》こうとするような恐ろしい奴婢たちに、あの娘は肩持ちされているのですよ。父さまやわたしがあなたがたの結婚に乗り気になれなかったのも仕方のないことではないかしら……」 「わかりました」  秋人はうなずいた。昂《たかぶ》りが去ったのか、 「もうけっして夏羽の名は口にしますまい」  妙に沈んだ、静かな語調で言いながら足もとに落ちている錫《すず》の容器を拾いあげて、そっと卓上に置き直した。 「そうなさい。いつまでも夏羽になど未練を持ちつづけていると、いずれかならず悔いる日が来ますよ」 「悔いる?」  目をあげて、秋人はまっすぐに母を見、父を見た。 「名こそもはや口にしませんが、わたしはいつまでも夏羽を忘れません。仲をへだてられたことで二人の結びつきはいっそう強まりました。むしろあなたがたこそ無体な仕打ちを後悔なさることになるのではないでしょうか」  一礼し、出て行きかけた出会いがしらに、 「申しあげます」  ぶつかりそうなあわただしさで召使がひとり、走りこんで来た。いまのいま話題にしていた稲手であった。 「藤原豊成卿のお屋敷から使いの資人《しじん》が、お手紙を持参いたされました」 「なに、卿の書状だと?」  受け取って封じ目を切る継麻呂の指が、目に立つほど慄《ふる》えた。いやな予感がしたからだが、案の定《じよう》、内容は夏羽の死の報《し》らせであった。紗《しや》の領巾《ひれ》を梁《はり》にかけて、彼女は縊死《いし》をとげたのだという。 「わたしの愛撫《あいぶ》を頑強に拒《こば》み、日夜、ふさぎこんでいたところをみると、だれか意中の男がいて、その俤《おもかげ》を忘れかねたのだと思います。残念というよりは男一匹、振りぬかれた恥かしさに身の置きどころがありません」  と書いて寄こした文字づらに、苦りきった豊成の口吻《こうふん》がうかがえるようだった。  出入り口の壁ぎわに秋人は化石したように突っ立っていたが、いきなり無言のまま部屋を出て行き、あべこべに稲手は五、六歩、卓子に近くよろめき寄って、 「なんということだろう!」  号泣《ごうきゆう》しはじめた。 「弟御ばかりか、姉娘までが、そろってむごたらしい最期をとげるなんて……」  その悩乱ぶりは、稲手がどれほど桑手の遺児たちをいとしんでいたか、行く末、幸せであれと念じていたかの証左《しようさ》となった。  見ているうちに、多慈女はむらむら腹が立ってきた。 (冬人の死、夏羽の死を、わたしたち夫婦のせいにして、この女はいよいよ怨恨《えんこん》を深めだすのではないか)  そう思うとぶきみだし、小づら憎くもあった。 (追い出したほうがよい。奴隷市場につれて行かせて売り払ってしまおう)  十四、五の童髪《わらわがみ》の時分から、白髪が目立ちはじめた初老の今日までずっと高梨家で飼われつづけてきた下婢である。いまさら売りに出すのは残酷な気もするが、 (桑手にまつわる絆《きずな》のいっさいが消滅し、かえってこれで、邸内がさっぱりするに相違ない。一時は悲しむにせよ、伸びざかりの若木だもの、新しい恋人でも見つければ秋人もかならず立ち直るにきまっている)  自分に都合よく解釈して、多慈女はむしろ勇み立った。 「ご主人さまのお居間だよ稲手、いつまでそんなところに坐りこんでいるの? 泣きたいなら奴婢溜《ぬひだ》まりに退《さが》ってお泣き」  稲手を追い立て、 「弱ったなあ、夏羽のやつ、とんでもない不始末をしでかしおった」  頭をかかえる継麻呂を、 「すぐ藤原家へ参上なさいませ。豊成卿にお目にかかってよくよくお詫びすれば、ご機嫌が直らぬことはないとぞんじます」  多慈女ははげました。 「むろん出かけるよ。夏羽の遺体を引き取りに来てくれと手紙にも書かれているしな」  しぶしぶ外出着に着替えて出て行ったあと、自室にとじこもったきりの息子を案じて、 「元気を出しなさい秋人、もうじき夏羽が帰ってきます。柩《ひつぎ》を迎えてやらなくていいの?」  戸口の帳《とばり》を多慈女は引きあけた。返事がなく、ツンと鼻腔《びこう》をかすめたのは腥《なまぐさ》い血臭《けつしゆう》である。 「秋人ッ」  多慈女は昏倒《こんとう》した。あたりは血の海だった。短剣で咽喉《のど》を突き、陶製の榻《とう》に背をもたせかけて秋人はこと切れていたのであった。 「秋人、あ、あきひと……」  薄れかかる意識の底で多慈女が嗅《か》いだのは、あの竜女の洞窟《どうくつ》から吹きあげてきた風の匂《にお》いだ。 「海も……海も鳴っている」  つぶやいた瞬間、まっくらな穴にさかさまに吸い込まれる感じがして、それっきり何もわからなくなった。  正気をとりもどしたのは暮れがたであった。くり返し遺書の中で、 「夏羽と一緒に埋めてください。おねがいです母さん。今はもう、それだけがわたくしの望みなのです」  秋人は愬《うつた》えていたが、 「だれが許すものか。そんなわがままを……」  幾つにも幾つにも、多慈女は書き置きを引き裂いて捨てた。  夏羽の亡骸《なきがら》ももどって来ていた。召使たちに言いつけて邸内の空地に多慈女は二つ、わざと一|間《けん》ほどあいだをおいて穴を掘らせ、 「よいではないか。こうなった上は、望み通り一つ塚の下に眠らせてやっても……」  継麻呂の取りなしをはねつけて若い二人を別々に埋めた。手が届きそうで、届かない距離……。土中の焦燥《しようそう》を計算して二つの穴を掘らせたところに、取り残された母の無念が露呈《ろてい》していた。 「さあ、これで未来|永劫《えいごう》、お前たちは手を握り合うことさえできなくなった。いまこそわたしは覚《さと》ったよ夏羽、竜女はお前だ。お前が羅刹《らせつ》だったのだ。だからこそ秋人を、わたしから奪い去って行ったのだろうが、別々に葬《ほうむ》られるなんて、さぞ当てはずれだろうね」  あくる朝——。しかし怪異が起こった。離ればなれに築《きず》かれた二個の塚が、手をつなぎ合ったのだ。 「蔦漆《つたうるし》!」  多慈女の視線が凍《こお》りついた。それぞれの塚から生え、一夜にして触手さながら伸びた双方の蔓《つる》が、まん中で絡《から》みついて、声のない歓喜を歌い上げていたのである。 「そうか……」  多慈女は思い出した。暇《ひま》を出され、奴隷市場につれて行かれることになった稲手が、同じ朝、別れを述べに部屋へ来たが、何かにかぶれでもしたようにその手は左右とも、赤く腫《は》れあがっていたではないか。 「夜のうちに、あの女が植えた蔦……。出て行きしなの嫌がらせというわけか」  男奴《おやつこ》を呼んで、すぐさま引き抜かせようとし、 「いや、このままにしておこう」  多慈女は思いとどまった。朱色に燃える蔦の葉に、稲手の、秋人の、夏羽の、そして自分自身の執心の深さを見た気がして、抜き取るに忍びなくなったのであった。 「夏羽や稲手が鬼女なのではない。わたしの胸にも鬼は棲《す》んでいる。宿主《やどぬし》の魂をずたずたに啖《く》い破る一匹の鬼が……」  はじめてどっと、涙があふれあがった。かぶれるかもしれない。あるいはかぶれぬたちかもしれない。頓着《とんじやく》なく、多慈女は土に膝を突いた。蔦漆の蔓をつかみ上げ、揺すぶり立てながら、 「秋人ッ、秋人ッ」  初冬の空を仰いで叫びつづけた。 彩絵花鳥唐櫃《さいえかちようからびつ》     一  西の市《いち》は今日も混雑していた。せまい通路を、両側から挟みつける形で棚店《たなみせ》がぎっしり並び、うまそうな煮炊きの匂いにまじって売り声が威勢よく交錯する。押し合いへし合いしながら人ごみを縫って歩くのも、出雲《いずもの》豊麻呂《とよまろ》にはたのしかった。  目的の獣肉店は、八条大路に面した市門《いちもん》の近くにある。豊麻呂が入ってゆくと、 「や、京職《きようしき》のだんな、お見廻りごくろうさまです」  肥った主人《あるじ》が愛想よく声をかけてきた。 「仕事ではないのだ。肉を少し分けてもらおうと思ってね」 「そいつはよかった。なにね、つい今しがた極上の猪《しし》が入荷したんでさ。霜がおり出すと、一日増しに猪は脂が乗ってきます。ごらんなさい、鮮やかなもんでしょう」  と切り分けて見せてくれた肉の塊りは、なるほど冴えた赤身に、白い脂肪が網状に走って、大輪の花が開きでもしたように美しく、みごとであった。 「召しあがってみるとなお、わかりまさあ。とろりと舌の先に、絡《から》みつくようなおいしさですぜ」  妻や子らのよろこぶ顔が目に泛かぶ。肉など口にするのは、何カ月ぶりだろう。 「ではその猪を一斤くれ」  思わず声が弾んだ。 「たっぷり、おまけしときましょう」  ドサッと秤《はかり》に乗せる手許を、豊麻呂は笑顔で眺めながら、 「めずらしく休暇をくれたのさ」  問われもしないのに喋《しやべ》った。口も軽くなっていた。 「ふだん口やかましい上司だが、今日は見直したよ。日ごろの精勤に免じて、昼すぎから帰っていいと言うんだ。案外、話のわかる人物だと思ったなあ」  口やかましいどころではない。貪欲《どんよく》で小意地悪く、上にはへつらう、下にはえばりちらすという典型的な小役人根性の持ちぬしなのである。職は大属《だいさかん》。名は巨勢岩国《こせのいわくに》という。  二カ月前、豊麻呂は官から金を借りた。長わずらいのあげく老母が亡くなり、葬式代が臨時支出となったため背に腹はかえられず、高利と知りながら銭で三百文、証文を入れて借入したのだ。  担保には住居《すまい》を提供した。板葺《いたぶ》きの、つぶれかかった小家《こいえ》だが、日歩二文もの利子を取りながら、担保がなければ官は借金の申し込みに応じてくれない。保証人まで立てろという。巨勢岩国には、 「けっして迷惑をかけませんから……」  おがみ倒して、このとき保証人になってもらったのである。  一家をあげてそれからは、返済に努力した。もともと質素だった食事を、さらに切りつめ、内職に精を出した。豊麻呂には薬剤の知識が多少ある。野山を走り廻って草根木皮を集め、乾燥して生薬《きぐすり》屋へ卸《おろ》したし、妻の黒刀自女《くろとじめ》は苧績《おう》みに励んだ。ことし十八になる息子の浄水《きよみ》も、これは筆跡が巧みなところから経師《きようじ》の下請け仕事を手伝い、夜ふけまで目を赤くしてがんばった。  一日も早く返さないことには、雪だるま式に利子が嵩《かさ》んで、しまいには動きがとれなくなってしまう。おかげで、でも、そんなことにはならずに今朝、元利ともに耳を揃えて役所へ持参できたばかりか、 「些少《さしよう》ですけれど……」  元金の一割が相場とささやかれている保証人への謝礼を、岩国の前にさし出すと、いつもなら当り前な顔でふところにさらえ込む男が、なぜかかぶりを振って、 「まあ、よい。わしへまで心附けなど持ってくるには及ばん。その金でたまには女房子に、うまいものでも食わしてやれ」  意外な情けを示したあげく、 「退庁時刻まで勤務していては市門が閉まってしまう。今日はもう仕事を切りあげて、市場での買物をすませたらそのまま家へ帰れ」  とまで言ってくれたのである。  豊麻呂は耳を疑った。欲ばり上司の豹変ぶりが何やら薄気味わるくさえなったが、受け取らぬ金を強《し》いて渡すこともない。 「では、ご厚意に甘えさせていただきます」  いそいそ乾門《いぬいもん》の詰所をとび出して、まっしぐらに西の市の肉屋へ駆けつけたのであった。  予期していなかった金だ。稗粥《ひえがゆ》を、野菜屑で薄めてすすりこんでばかりいた家族ども……。その空《す》き腹の前へ肉の塊を抛り出したら、目を回して驚くだろう。歓声が聞こえるようだ。 (わるかったな)  仲間の史生《ししよう》たちと一緒になって、巨勢岩国の強欲ぶり酷薄ぶりに非難の目を向けてきたのを、豊麻呂は内心、愧《は》じた。 (あの人への評価を、これからは改めねばなるまいな)  肉屋は大きな蓮《はす》の葉に、手ぎわよく肉を包んだ。 「へい、お待ちどおさま」  渡してくれながら、 「弥勒《みろく》寺の塔を、今日これから、いよいよ検分するそうじゃありませんか」  露骨な好奇心を漲《みなぎ》らせて言う。 「ほう、やるのかね、やはり……」  風評は豊麻呂も耳にしていた。寧楽《なら》京内の五条三坊に帰化人の集団が建立《こんりゆう》した一宇《う》がある。最近、境内に九重の塔がそそりたったが、塔の九輪《くりん》や水煙《すいえん》が青銅製ではなく、どうやら革で造ったまがい物らしいと評判が立ったのだ。 「とんでもない。正真正銘の銅ですぞ」  鋳金工は怒り、 「はっきりさせねば気がすまぬ」  寺側も息巻いて、おたがいに争ってきたのであった。 「たしかめるとはいっても、おいそれとは埒《らち》があくまい。なにせ九層もの巨塔だ。いま一度、足場でも造ったのかね?」  豊麻呂の問いかけに、 「またぞろ足場なんぞ組み直したら、入費だけでもたまりませんや」  肉屋は大仰に手をふった。 「坊主ども、智恵を絞ったんですよ。東大寺から万志良《ましら》のやつを借りてきたんです」 「ましら? 猿かね?」 「どんなに高い所にでも、するする登っちまうのでましらの異名で呼ばれているけれど、人間は人間でさあ。東大寺に飼われている男奴《おやつこ》ですよ」 「そうか。そいつを塔に追いあげて、革か銅か真偽を見届けさせようというわけだな。うまい手段を考えついたものだ」 「窮すれば通ずってやつですな」  笑い合って外へ出た。金はまだ、ある。米を買い、醤《ひしお》を買い、二合ほど自分のために酒も買った。蜜《みつ》でからめた|※米《おこしごめ》を忘れなかったのは、甘い物などめったに口にしたことのない三歳になる娘の、はしゃぎ声を聞きたかったからである。  肉屋ばかりでなく、どの店へ寄っても塔の話で持ちきりだし、 「もうじき始まるぜ。見に行こう」  連れ立ってそそくさ、市場を出て行く物好きも少くない。  弥勒寺は帰り道に当っていた。通りすがりに眺めると、門内はすでに黒山の人だし、あとからあとからヤジ馬が駆けつけてくる。西に寄りはじめてはいるが日ざしはまだ明るく、夕飯|時《どき》にはだいぶ間《ま》もあった。 「ちょっと覗いてみようかな」  気まぐれを起こして豊麻呂も中へ入ってみた。晴れ渡った初冬の空を背後に流して、九重の塔の全容は截《き》り取った金属の稜《かど》さながら眩《まぶ》しく、鋭い。はじめて目にする者も多いのか、 「りっぱだなあ」  感嘆の声がしきりにあがっている。大方の見るところ、相輪《そうりん》がいかさまとは、とても思えない。 「革だなんて噂が、なぜ立ったのだろう」 「鋳工に悪意を持つやつが、わざとばらまいた流言かもしれぬな」  そんな会話もあちこちで交されていた。  人垣の一方がどっと割れて、僧たちの黒衣が現れた。俗体が五、六名、それにつづく。でっぷり肥えた五十がらみの鉤鼻《かぎばな》が、鋳金師の川辺八束《かわべのやつか》だろう。取り囲んでいるのは工房で働く弟子の工人どもにちがいない。 「万志良《ましら》だッ」 「東大寺の猿奴《さるやつこ》がやって来たぞ」  人々はどよめく。工人の一団よりわずかにおくれて、丈の高い男と低い男が塔のそばへ歩み寄った。低いほうは奴《やつこ》の長《おさ》とみえて手に鞭を握っている。万志良は背丈が、その倍ほどもあり、しかも金剛力士の像を見るように腕も胸も、筋肉がりゅうりゅうと盛りあがって見るからにたくましい。眼つきは猛禽《もうきん》を連想させるし、唇が厚く、肌もあさぐろい。強健を誇示したいのか、この寒空《さむぞら》に袖なしの麻の布衫《ふさん》、脛までの短袴《たんこ》しかつけていない。半裸に近い身なりだった。|※頭《ぼくとう》とも何ともつかぬ奇妙な布切れを頭に乗せ、ちぢれた褐色の毛髪を耳の両脇からはみ出させている。  寧楽《なら》の都は人種のるつぼだ。漢人・新羅《しらぎ》人・高句麗《こうくり》人・渤海《ぼつかい》人……。炎を呑んでみせる天竺《てんじく》渡りの魔術師もいれば目の青い回鶻《ういぐる》商人までが、我もの顔に朱雀大路をのし歩いていた。毛色の異《こと》なる外国人を、いまさら珍らしがる者など一人もいない。 (親の代あたりに、どこか熱暑の国から売られてきた混血の奴隷《どれい》だな)  万志良を見て、豊麻呂もチラと想像したにすぎない。  むしろ興味は、みごと巨塔へ万志良が攀《よ》じ登ってのけられるかどうか、その成否にそそがれた。衆目のまっただ中で主演できる得意さが、万志良の表情を尊大なものにしている。彼は群集をじろじろ見回し、輿望《よぼう》を担って起《た》つ英雄然とした態度で、八束の面前に腕組みしたまま突っ立った。 (貴様の面皮《めんぴ》を、たったいま剥《は》いでくれるぞ)  そう言わんばかりな傲慢な面《つら》つきである。鉤鼻を憎さげにしかめ、負けず劣らずの眼光で鋳金師も万志良を睨み返した。 (猿奴《さるやつこ》め、出しゃばりくさって……。登れるものなら登ってみろ)  しかし八束の顔色は、酒焼けした日ごろの血色にくらべて心なしか悪かった。     二  動きはじめると万志良の動作は敏捷だし、骨が無い者のように柔軟ですらあった。勾欄《こうらん》に立つが早いか軒|垂木《たるき》に飛び移り、たちまち屋根にあがって次の層の勾欄に手をかける。名の通り、まるで猿《ましら》だ。見物の声援は地鳴りとなって境内をゆるがす。豊麻呂もほとほと舌を巻いた。南方の密林に、自由に生活していたころの先祖の野性が、いきいきと今、万志良の血の中に蘇《よみがえ》ったらしい。 (あの調子なら、苦もなく最上階まで登りつめるな)  八束はいまやまっ青だった。顔をこわばらせ、猪首《いくび》をうしろへのけ反《ぞ》らせて、一心不乱に塔を見上げている。  このまにも日は傾き、茜《あかね》の光彩が片空を華やかに染めはじめた。少しずつ紅《くれない》は濃さを増し、巨塔は静かな白金《しろがね》の炎に包まれる。その中に動くのは、五層目に移り六層目に達し、ようやく七層目にかかろうとしている万志良と、輪を描いて舞う夕鳥の群れだけだ。逆光を浴びて万志良の姿は黒く、豆粒ほどにもすでに小さい。  ついに彼は九層目に立った。あと一層で相輪の真偽は判明する。九層目の軒先めがけて跳躍しかけた万志良は、しかし斗※《ときよう》の出ばりを掴みそこなって、回廊の床《ゆか》にもんどり打った。見物は肝を冷やす。万志良の位置から見おろせばおそらく地上との距《へだた》りは、目もくらむばかりに相違ない。  それでも怯《ひる》まずに彼はふたたび九層目の屋根に挑んだが、なぜかまた、やりそこなって今度は隅木《すみぎ》にぶらさがり、 「ぎゃああ……」  さすがに身の毛がよだったか引きつったような恐怖の叫びをあげ出した。 「助けてくれえ、こわいよう、もう登れねえ、かんべんしてくれえ」  下では僧たちが怒声を張りあげる。口々に群集もわめく。あとひと踏んばりじゃないか、登れ、見届けろッ、おりでもしたらおのれ、許さんぞッ。  万志良はでも、身体を振子さながら振りはじめ、勢いをつけて九階の廻り縁にとびおりると、気絶でもしたか、それっきり音沙汰なくなった。やむなく僧や工人たちが塔の内部へなだれ込む。階段を伝って最上層まで登り、万志良の怠慢を責め立てたが、 「もう駄目だ。ここまででやっとだったんだ。てっぺんになど追い上げたら目がくらんでおらア手足が萎《な》える。おっこっちまうよう」  勾欄にしがみついて叱ってもなだめても言うことをきかない。とうとう仕方なく階段を利用して追いおろしたが、地上で待ちうけていたのは手ひどい制裁だった。 「猿の生まれ代りのくせに、こわいが聞いて呆れる。嘘をつきやがってこの、横着者め」  奴頭《やつこがしら》の鞭が情け容赦もなく裸の背に打ちおろされ、僧たちの足蹴までがそれに加わった。 「嘘じゃねえよ。高くなるにつれてがくがく身体が慄えて、どうにも登り切れなくなっちまったんだ。けど、検分はしたよう。相輪は金銅だあ。竜舎《りゆうしや》から宝珠まで、ちゃんとこの目で見届けたよう」 「いいかげんな出放題をほざくなッ」  鞭や棒切れの乱打の下で、痛え、痛え、許してくれえと頭をかかえて転げ回るころには、 「なんだ、つまらん」 「やりそこなうとはなあ。見ていて損をしたよ」  文句たらたら見物は散りはじめ、改めて対策を協議するつもりか、僧たちも八束らをうながして僧坊へ引きあげてしまった。  わざわざ東大寺から出張《でば》って来てくれた労をねぎらうつもりだろう、奴頭も酒を振舞われに庫裏《くり》へ案内されて行き、基壇《きだん》の裾の石畳には万志良の呻吟《しんぎん》だけが取り残された。  豊麻呂も帰りかけたが、背中じゅうを血だらけにして苦痛の声を洩らしている万志良を、奴隷とはいえ放置しては立ち去りかねた。寄って行って、 「しっかりしろ」  抱き起こすと、 「うるせえッ、かまうなッ」  興奮の余波か、豊麻呂の手を払いのけて万志良は暴れた。でも、動物的な勘ですぐ、害意のない相手だと見ぬいたのだろう、 「なんとかしてくれえ、痛くてたまらねえよう」  泣き声まじりにしがみついてきた。大仰な、馴れ馴れしいそぶり、強い体臭に辟易《へきえき》しながらも、水場へつれていって傷口を洗い、 「まてまて。ざっと手当しておくからな」  豊麻呂は手ばやく腰の袋をはずした。薬が数種類、常時入れてある。血止めを出して塗ってやる手へ、さも気持よさそうに身体を委《まか》せながら、 「あんた医師《くすし》か?」  万志良は問いかけた。 「いいや、下ッ端の官吏だ。右京職の史生《ししよう》さ」 「おれは奴隷だぞ」 「知ってるよ」 「なぜ、優しくしてくれるんだ」 「優しくはない。人間同士なら当り前だろう。お前は怪我をしているのだ」 「怪我させたやつらだって人間だぜ」 「人間にもいろいろある。立場にも依る。打つのが役目なら打たねばなるまいし、介抱できる立場にいれば介抱もしよう。それだけのことだ」 「もしかしたらあんた、出雲豊麻呂と言いはしねえか?」 「よく知ってるな。おたがい、逢ったのははじめてなのに……」 「おれの仲間が、石運びのさいちゅう腹痛《はらいた》を起こし、道ッぱたで唸ってたところを、やっぱり助けてもらったそうだぜ」 「そんなことがあったかな」 「薬をくれた、飲んだらけろりと癒《なお》ったって話してたっけ……」  覚えがなかった。近所隣り、役所の同僚、行きずりの他人でも困っている場合、応急の手当をほどこすのは豊麻呂にすれば当然な行為だった。感謝されれば気持があたたまる。それだけの報酬に充分、満足して、薬袋をつねに持ち歩いているのである。 「さあ、すんだ。血が散ったわりには浅手だよ。やがて痛みもとれるだろう」  布衫《ふさん》を着せかけてやっているところへ、酒の匂いをぷんぷんさせながら奴の長《おさ》がもどってきた。 「野郎、よくも恥をかかせやがったな」  まだ打擲《ちようちやく》し足りないのかのように怒鳴る。 「帰るんだ、とっととついてこいッ」  よろりと立って、万志良は豊麻呂の手をにぎりしめた。 「ありがとよ。親切にしてもらって、うれしかったよ」  生まれ落ちるから奴隷として飼われ、牛馬以下にしか見られない日常の中だけに、こんな無知な、野育ちな男でも、人の温かみに餓《う》えているのかと思うと、ふっと豊麻呂は哀れになった。  いつのまにか残照は輝きを失い、西空をいろどっていた緋《ひ》色の燃えは、どすぐろい紫に変っていった。塔の影が長く伸びて、境内の四隅に夕闇を澱《よど》ませはじめている。 (とんだ道草をくってしまったな)  悔いがかすめた。革鞭を振り振り、万志良を追い立てて去って行く奴頭《やつこがしら》とは逆に、我が家へ向かって豊麻呂は走り出した。土産《みやげ》の重さが腕にこころよい。チラチラ灯《ひ》のともりはじめた町筋を急いで、路地裏へ踏みこむと、どういうわけか家の戸口に人だかりがしている。 (何かあったのか?)  いぶかりながら近づく夫を、目ざとく見つけて黒刀自女《くろとじめ》が土間をまろび出てきた。 「あなた、大変ですッ、わたしと子供ら二人、東大寺につれてゆかれて、奴隷にさせられるんですって……」  豊麻呂は棒立ちになった。たった今、東大寺の男奴《おやつこ》と口をきき合った、きずに薬を塗布してやった、それとこれと関係があるのか? いったい何の話なのだ? 奴隷にされるとは、どうしたわけか? 「わしらも仰天しておるのじゃよ豊麻呂さん」  説明役を買って出たのは向いに住む老人だ。 「腑に落ちかねるのも無理はないがの、黒刀自女さんの言う通りあんたの妻や子は、東大寺へ施入されたそうなのじゃ」 「施入? ひとの女房子を、だれが勝手に寺になど施入したのですか?」 「三輪のあたりに広大な所領を持つ大宅《おおやけの》朝臣《あそん》可是麻呂《かぜまろ》とやらいう豪族じゃそうな」 「ばかなッ、どこのどいつか知らないが縁もゆかりもないあかの他人に、大事な家族を左右されてはたまりません。そんなことができる道理はないでしょう」 「それができるのじゃ。黒刀自女さんの実家は昔、摂津にあったそうではないかい」 「妻の、祖父母のころですよ」 「なんでも当時、その村は可是麻呂朝臣の父御《ててご》の領地であったそうな。山背《やましろ》にも同様、飛び地を持っておるのじゃが、養老年間に公《おおやけ》に訴えて、二カ村の村人は我が支配民、大宅家の奴婢なりと申し出た。そして官から、それを認証されたというわけじゃ」  村人たちは驚愕した。寝耳に水の凶報である。刑部省からの令達で、 「向後、汝らの身柄は奴隷として、大宅家の戸籍に編入されるものとする」  と申し渡されたとき、彼らは怒って控訴した。 「三代四代前の遠祖にまでさかのぼれば、あるいは大宅側の言う通り、村の者はその隷属民《れいぞくみん》であったかもしれぬ。しかしすでに天智天皇の御代、庚午年籍《こうごねんじやく》が作成された時点で、村民らは五比、ならびに七比を経《へ》た者、つまり品部《しなべ》の血の薄まりを認められ、全員、良民としての新戸籍を獲得したはずである。いまさら大宅家の奴婢になど身を堕《おと》すことはできない」  筋の通った主張だったにもかかわらず、父の歿後、家督を継いで大宅家の当主となった可是麻呂は承服せず、要路の役人に賄賂をばらまいて、勝訴の判決をかちとってしまった。 「だからというて、遠く離れた摂津や山背から、代々その地に住みつき、耕作もし機《はた》織り土器《かわらけ》作りなどしておる人々を、無体《むたい》に引っ立てて来るわけにもまいらぬ。言うてみりゃ宝の持ち腐れじゃ。勘定高い可是麻呂にすれば、なんとも惜しゅうてならなんだのであろう。村民どもは、それっきり官からも大宅家からも沙汰がないゆえ『訴訟に勝ったところで実際にはどうとも出来ぬ事柄ではないか。戸籍面では大宅の所有であろうと、わしらの身分はもとのまま……。これまで通り平穏にくらしてゆける』と安心しきって、中には黒刀自女さんのように他国へ嫁入る者もおった。だが、どっこい可是麻呂めは、投げ出してはおらなんだのじゃ。たいまいの袖の下まで使って手に入れた利得《りとく》……。何としてでも生かしてのけようと折りを狙うておったのじゃよ」     三  その好機はきた。去年——天平勝宝元年十二月二十七日、聖武上皇と光明皇太后夫妻は、愛嬢の孝謙女帝と鳳輦《ほうれん》をつらね、東大寺に行幸して礼仏《らいぶつ》供養したが、五千人もの僧侶が読経し、さまざまな異国の舞楽が奏されるなど、未曾有の盛儀を現出した。  これを記念して、東大寺には朝廷から、封四千戸が寄進され、男奴隷百人、女奴隷百人の施入を見た。官奴司《かんぬし》の支配下に属する官奴婢の内から、選り出された者たちである。  天皇家にならってこのとき美濃・近江・丹波・但馬の国司らも国内の奴隷を買い上げて東大寺に貢進したし、諸国の富豪たちまでが同調した。信仰心の発露からでは、もちろん無い。朝廷におもねり、東大寺に媚びることでより多くの利権が約束される。それを期待したのであった。  可是麻呂も、この機会を逃がさなかった。財産でいながら、自力では邸内へ移すことのできない二カ村の村民——。しかし彼らも、東大寺の力には歯向かえっこない。所有権を替えるのだ。そして奴隷を欲しがっている東大寺の、印象をよくする。 「信心ぶかい大檀越《だいだんおつ》……」  見返りは、たっぷり恵まれるはずだと可是麻呂は踏んだのだ。飛び地の住人六十一人を、彼は一括して東大寺に献納してのけた。添え状の『貢賤解《こうせんげ》』には、六十一人の姓名・年齢と現住所、血縁の場合は続柄《つづきがら》が記載され、黒子《ほくろ》の部位、痣《あざ》の有無など、いつどうやって調べたか逃亡に備えて、身体的な特徴まで明記してあった。 「一ッ刻《とき》ほど前じゃ。解《げ》の写しを手に東大寺の使僧がやって来てな、黒刀自女さんは村の出身……。大宅家の戸籍に載せられた者ゆえ、奉納された現在、身柄は寺へ移して婢とする、その血を享《う》けた二人の子——倅《せがれ》の浄水《きよみ》、娘の黒君《くろき》も同様、寺の所有とすると言い渡したのじゃよ」  豊麻呂は自失した。 「無茶だッ」  声をしぼり出すのがやっとだった。 「知らぬまに妻子が奴婢にされ、物品同様やり取りされて、夫の手、父親の手からもぎ離されるなんて……そんな非道が許されるものかッ」  土産の包みを、彼は土間へ叩きつけた。なまじ団欒《だんらん》のたのしさを描きつづけて帰っただけに、憤りは胸中に沸き返った。 「わたしは嫌ッ。家族ばらばらに引き離され、子供らまでが奴隷にされて、一生涯、笞《しもと》の下で追い使われるなんて……そんな惨《みじ》めな目に遇うくらいなら舌を噛み切って死んでしまいますッ」  狂ったように黒刀自女は悶《もだ》え、その母の背にとりすがって、息子の浄水も、 「どうしよう母さん、なんとかこの理不尽な申し渡しを拒否できないだろうか、ね、父さん」  声を慄《ふる》わせた。幼女の黒君までが事情はのみこめぬながら、父が怒り母が泣き、兄が歯をくいしばっているのを見て、おろおろ、しゃくりあげはじめた。 「物の道理のわかる人に相談してみよう。役所の上司にでも……」  と踵《きびす》を返しかけて、 「あッ」  いきなり霹靂《へきれき》にでも遭《あ》ったように豊麻呂は居竦《いすく》んだ。常になく大属《だいさかん》の巨勢岩国が寛容だった。礼金を受け取らず、鬼と仇名されている男が市場の門限にまで気をつかって早退をすすめ、妻子にうまいものでも食わせてやれなどと日ごろにない仏顔《ほとけがお》を見せたのも、当の豊麻呂よりひと足はやく、東大寺からの連絡で、貢奴婢《こうぬひ》の件を知ったからにちがいない。 「だめだッ」  豊麻呂は喘《あえ》いだ。  京職は左京・右京に管轄が分かれて管内の戸口《ここう》・田宅《でんたく》・道路・橋梁の整備や商工業者の監督、司法や警察の任務をつかさどる。長官の下に亮《すけ》・大進・少進・大属・少属の職階があった。豊麻呂ら史生たちは机上事務のほか、羅城十二門の詰所に配属されて、京内外への人の往来、荷駄の出入りを見張るほか門の開閉をも仕事にしている。人数こそ多いが、下部《しもべ》の上に位置する下吏にすぎない。だれに縋《すが》り、いまさらだれに哀訴してみたところで、すでに事情を知りながら成りゆきまかせに突き放してしまった上役たちが、救いの手など差しのべてくれる気づかいはないのだ。  ——宣告だけをくだしていったん帰った東大寺の使僧が、こんどは寺奴《じぬ》数人とその長《おさ》を引きつれてやって来た。 「嫌ッ、行くのは嫌ですッ、助けてッ」  黒君を抱きしめ、泣きさけんで土間に打っ伏す黒刀自女の、髪をつかみ腕を捻じって曳きずり出す……。  薪《まき》を振り回して抵抗しようとした浄水は、叩きのめされて縛りあげられ、これも家の外へ引っ立てられた。鞭をふるって息子を打った小男を、弥勒寺で見かけた奴頭《やつこがしら》と知って豊麻呂も逆上した。 「渡さぬッ、どこへもやらぬぞ」  躍りかかろうとする腰を、肩を、 「気持はわかる。口惜しさも察するが、抗《あらが》ってかなう相手じゃない。こらえろ豊麻呂さん、夫婦の縁、親子の縁が、今日かぎり尽きたのだ」  寄ってたかって抑えつけたのは近所の者たちだった。 「疫病に犯されて、妻子がいっぺんに死ぬこともある。その手の不幸に見舞われたのだとあきらめろ。無念を断ち切るのじゃ。な? 相手が悪い。東大寺ではしょせん、わしらの歯は立たぬ」 「いっそあれたちが、病死してくれたほうがよい。がんぜない黒君までが四ツ五ツから追い使われ、一生を地獄の責め苦の中で送るのかと思うと居ても立ってもいられない。離してくれッ、つれもどしに行かせてくれッ」  悲鳴、怒号、鞭の唸りや足音が、入り乱れて路地を遠ざかり、もうふたたびこの家へ働き者の黒刀自女、学問好きの浄水、愛ざかりの黒君らがもどってくることはないと確信しながらも、向いの老人はじめ近隣の人々は去らなかった。豊麻呂の激昂が鎮まるのを待ったのだ。彼らの足許に豊麻呂は倒れ、男泣きに泣き沈んだ。     四  役所へ出るのを豊麻呂はやめてしまった。無届け欠勤である。右京職の本庁は朱雀大路の西、三条三坊の角地《かどち》にあるが、豊麻呂の職場は城壁の四囲十二カ所にうがたれた門のうち、北西の隅を守る乾門《いぬいもん》の詰所で、史生五人、下部七、八人の指揮をとるのが巨勢岩国であった。  いつもなら、断りなく休むことなど絶対に許さない岩国が、さすがにしばらく見のがしていたのは、 「へたに叱りなどすると豊麻呂め、怒り狂って、何をしでかすかわからぬからな」  ふだん、温和と見られている男の思い詰め方を、ひそかに恐れたからだった。 「がんらいが小心|律儀《りちぎ》……。いつまでも怠けつづけてなどいられぬ気質だ。そのうちに出てくるよ」  この予測は当った。やがて従前通り、豊麻呂は出勤しはじめたけれども、陰鬱な顔をしてろくに口もきかない。 「無理はない。おれだって妻や子をいきなり奴隷になどさせられたら気が変になるかもしれないものな」  仲間の史生たちは同情し、筆を執りかけたまま時おり豊麻呂が、放心したように壁をみつめていたりしても、腫れ物にさわる思いでそっとしておいた。  役所が退《ひ》けると、豊麻呂は毎日のように東大寺へ出かけて行った。門鑑きびしい官寺である。長大な土塀に添ってうろうろ廻り歩いても、奴婢長屋がどこにあるのか、黒刀自女や浄水たちがどのような酷使のされかたをしているのか、詳しい状況は知りようがない。  おびただしい寺領と僧徒をかかえ、写経所や鍛冶場、仏像仏具の修理所まで寺内に持つ寺だから、数百人もの奴隷を使ってなお、人手は足りないようだ。婢は糸をつむぎ布を織り、幡《ばん》や袈裟《けさ》、厨子《ずし》の覆い布などを縫う。刺繍や染め物に従事する者、工人たちの衣服の仕立、炊事や洗濯も彼女らの受け持ちにちがいない。  奴《やつこ》は畑を打つ。鍛冶職の叱咤のもとで鞴《ふいご》を踏む。馬を飼い牛を飼い木を伐り草を刈り、紙漉《す》きの労働にも使われるのだろう。 「浄水《きよみ》よ。病気になどなってくれるな」  力仕事には向きっこないひ弱な、それだけに親思いだった息子の微笑が、胸さきを絞りあげるような苦しさで豊麻呂の眼裏《まなうら》に明滅した。  そんな彼に、東大寺から呼び出しがかかった。妻子がつれて行かれて以来、二カ月近くたっている。年は明け、暦の上では春がめぐってきたけれども、朝晩の凍《い》てはまだ、きびしく、土塀のかげの霜柱は午後になっても白いままだ。  ようやく入れた門内なのに、そこで豊麻呂が渡されたのは、菰《こも》にくるんだ黒君《くろき》の死体であった。 「くると早々から腹をくだしていたそうだ。子供はいかん。半人前の役にも立たぬし、死ぬ率がやたら多い。もっとも市での売り値も安いけれどな」  係りの僧は無表情に言い、すぐ持って帰れと顎の先で命じたきり、妻のこと倅《せがれ》のことを豊麻呂がいくら訊《き》いても、 「知らんよ。奴婢ひとりひとりの動静など奴頭《やつこがしら》のほか把握してはおらん」  とりつくしまもない。  抱いて帰って菰をあけると、小さな身体は痩せこけて、垢《あか》にまみれ、愛くるしかった面ざしは跡かたなく消えうせていた。 「黒君ッ、可哀そうに、辛《つら》かったろう」  下痢からの衰弱死だという。水が変り食物が変り、病んでののちも、ろくに手当すらしてもらえなかったのだ。衣服は汚れきっている。  湯を沸かし、幼女の全身を豊麻呂は洗い清めた。左手にボロ布が巻かれ、血が乾いてこびりついているのは、怪我でもしたのだろうか。いたわり深く布をはがし、血を落としてやろうとして、 「おや?」  子供の掌を豊麻呂は凝視した。むざんな切りきず……。そこがしかも、異様に膨《ふく》らんで、何やら固い物が覗《のぞ》いている。骨かと思ったがちがう。おそるおそる引き出してみると、薄く削《そ》いだ木の皮であった。こまかくたたんだ麻布の切れはしが間に挟まってい、拡げると見覚えのある浄水の字で、 「母さんをつれて逃げます。乾門を目ざすから、どうか父さん、門扉が開けられる工夫をしておいてください」  と書かれていた。  豊麻呂は戦慄した。奴婢の脱走は絶えない。しかし逃げおおせる者は百人に一人もなかった。追手につかまり、半殺しの刑罰に遇《あ》わされたあげく、また、もとの奴隷溜りへ追い落とされる。  同じ轍を踏ませないように、額に焼き印を押したり、入れ墨をほどこす場合もあるし、田畑や山へ作業に出すさいは奴隷同士、足を鎖《くさり》でつないでしまう主人もいた。  そうまでされながら二度、三度と、懲《こ》りもせず逃亡をくり返す者もいる。 「石にかじりついても自分だけは、逃げ切ってみせる」  自信が彼らをうながすのか、それとも刑罰の恐怖を上回って、故郷や家族、自由への執着が抑圧の苦痛をゆすぶり立てるのか。 「うまくゆくかなあ」  危惧に、豊麻呂は青ざめた。でも、浄水は決意してしまっている。十八歳の若さが、のしかかった運命の不条理を、なんとしてでもはね返そうとあがくのだろう。 「よしッ」  豊麻呂も肚を固めた。黒君の亡骸《なきがら》を葬るとすぐ、彼は家を売り、当座の食糧・雨具・衣類などを調えて三つの包みに分けた。住み古した小家なので、手に入れた売り代《しろ》はおどろくほど少なかった。新鋳の銅銭で二百文にしかならず、物を買いこむと残額は百文を割った。銭も三分して緡縄《さしなわ》を通し、豊麻呂は詰所の宿直《とのい》部屋に移った。妻子の思い出がしみついている家に、独りでくらすのは淋しくてやりきれない、貸し室を探して越すつもりだが、そのあいだ泊り番を引き受けようと申し出ると、だれもが嫌《きら》う夜勤だけに、 「そいつは助かる。たのむよ」  二つ返事で同僚たちは承知した。  正申《さる》の刻には皇居の諸門がしめられ、鼓楼《ころう》で打ち鳴らす閉門鼓を合図に、寺々の鐘がいっせいに鳴り出す。東西の市は市司《いちのつかさ》の手でとじられ、商人は引きあげた。一刻のちには都城の十二門もしまる。公用の使者のほか夜間の通行は禁止されているから、更《ふ》けてくると大路小路には、三、四人ずつ組んで巡邏《じゆんら》する衛府《えふ》の兵士以外に人かげは絶えてしまう。聞こえるのは犬の遠吠えだけだ。 (今日、来るか、今夜こそ決行するか)  待ちつづける緊張に、豊麻呂は消耗した。 (監視の目をうまくくぐりぬけることができるだろうか。失敗して、残忍な体罰を受けているのではあるまいか)  案じ出すと一睡もできない。かすかな物音にも豊麻呂は跳ね起きたが、烈風の吹きまくるある夜、ついに待ちわびていた声を彼の聴覚は捉《とら》えた。板戸が小さく叩かれ、 「父さん、わたしです」  浄水が呼んだ。ささやきに近い。 「おう、来たかッ」  あわてて開けた戸口から風に押されて妻と倅がよろめき入って来た。髪が乱れ、唇にまで血のけがない。二人を豊麻呂は抱きしめた。二度と触れることができないと諦めていた肉親の感触……。甘美な情感の通《かよ》い合いが肌のぬくもりと《と》け合って切迫した号泣の底に、彼らを否応なく叩きこんだ。泣いてなど、しかしいられなかった。下部《しもべ》溜りが隣りにある。嗅ぎつけられたら一大事だし、逃げ出すさいに、寺側の見張りにも見つかってしまったのだと浄水は言う。 「追手がくり出してきます。ぐずぐずしてはいられませんッ」 「用意はできている」  三分した荷を取り出して内の二つを妻と子に渡し、ひと包みを豊麻呂はしっかり自身の身体にくくりつけた。万一、途中ではぐれても、荷をめいめいが持っていれば、すぐさま路頭に迷う惧《おそ》れはない。 「さあ、こっちだ」  手をつなぎ合って乾門へ走る。鍵をさし込んで重い扉を押しあけ、都外《とがい》の闇へ飛び出した。譫言《うわごと》のように黒刀自女が口ばしる……。 「やっとまた、もと通りになれた。もうこんりんざい離れない。もし追いつめられたら、捕えられる前に三人一緒に死にましょう」  忿怒に、豊麻呂の足ももつれた。夫婦ではないか、親子ではないか、一緒にくらすのが当然な者たちを無体《むたい》に引き裂き、死によってしか寄り添うことを許さぬ権利が、いったい、だれにあるというのか!  ……山越えして山背《やましろ》へぬける坂道を、彼らはやみくもに駆けつづけた。息が弾む。荷も重く、胸がくるしい。振り返って京内の方角へ目をやると、無数の松明《たいまつ》が同じ道をうねり登ってくるのが見えた。 「追手だッ、東大寺の捜索隊だッ」 「僧徒どもと、奴頭《やつこがしら》にひきいられた男奴《おやつこ》の一団だよ父さん、連中は武器を持っている」 「まっすぐこの道を行けば、たちまち追いつかれてしまうな。山の中へもぐりこもうか」  迷って、血走った目をあたりへ配った刹那《せつな》、頭上の枝がざわめき、人がひとり、音もなく路面へとびおりてきた。黒い肌が暗がりに滲《にじ》んで、歯の白さだけがきわだって見える。 「おぬし、万志良《ましら》ではないか」 「追手に加えられて出て来たんだが、たぶん、ここを通ると見当つけたんでね、先廻りして木の上にひそんでたのさ」 「われわれをつかまえる気か?」 「あべこべだよ。ここで追手を防いで、みな殺しにしてやるつもりだ」  背の矢壺を、万志良はゆすり上げた。手には素朴な樫《かし》の弓を握っている。 「そうかッ、ありがたい。恩に着るッ」 「それよりあんた、路用を持ってるか?」 「銭《ぜに》を百文、三つに分けて所持しているが……」 「役に立つもんか官鋳の銭なんぞ……。都の内でだけは無理やり通用させているけど、一歩、地方へ出たら稗《ひえ》一合にも代えられねえぜ」 「そんなに銭には信用がないのか」 「重くて嵩《かさ》ばって、しかも糞《くそ》の役にも立たねえ銅銭なんぞ、ほっぽってしまえ。これを餞《はなむけ》にやるからさ」  突き出したのは赤児の頭ほどもある麻袋だ。 「砂金だよ。津々浦々どこへ逃げたって、金なら馬とでも米とでも、百姓たちはよろこんで代えてくれらあ」 「奴隷のおぬしが、しかしどうして砂金みたいな貴重なものを……」 「鋳金師の八束から召し上げたのよ。おらア見破っていた。弥勒寺の塔は、受花《うけばな》も九輪も水煙も竜舎も、つまり相輪ぜんぶが革で作ったまやかしだぜ。塔に登れる者はおれしかいねえ。八束は冷汗かいてたな。さんざんビクつかしておいて、でも、わざとおらアしくじってみせた。おかげで仕置きはされたけど、代償に金を強請《ゆす》り取ってやったわけだ」 「すまない。おぬしだって欲しかろうに……」 「介抱してくれたお返しよ。さあ早くしろ。松明がほれ、すぐそこまで追いついて来たじゃねえか」  せきたてられるまま三人は銅銭をはずし、道の脇の草むらに捨てた。腰回りがそのぶん軽くなる。袋を受け取り、急いで豊麻呂はふところにねじこんだ。 「追手はかならずくいとめてくれるね」 「気づかい無用だ。一人も通しゃしねえよ。安心してまっすぐこの道を進みねえ」  礼を口にするひまもなかった。豊麻呂たちは手をとり合って駆け出した。——直後、捜索隊が同じ坂道を分け登って来た。 「おや、万志良、抜け駆けしやがってこんなとこまで来てたのか? 相変らずすばしこい野郎だな」  奴頭のあきれ顔へ、 「みんなの足がのろすぎるんだよ」  ニヤニヤ笑いを万志良は投げた。 「でも間違いねえ。豊麻呂一家はこの道を行ったぜ。つい今しがただ。あとひとっ走りすりゃアわけなく追いつくよ」 「なぜ手前《てめえ》、見のがした」 「足を狙って矢を放ったんだが、射はずしちまったのさ」 「ドジめ、さっさと隊に加われ」  犇《ひしめ》き合いながらまた、追跡し出すのを見送って、 「けッ、ごめんこうむらあ。ひと足先に寺の奴婢長屋へ引きあげて、おらア寝るよ」  独りごとを言い言い銭の束を三つ、茂みの中から万志良はうれしそうに拾い上げた。 「百文ありゃ当分ガニ打ちが楽しめるな。へへ、豊麻呂め口から出まかせを真《ま》に受けやがった。麻袋の中身をただの砂と知ったら、さぞがっかりするだろうぜ。でも、もう今ごろは取っつかまってるにちげえねえ。女房や倅は奴婢に逆もどり、やつはたぶん打ち首……。知ったこっちゃねえよ。人のことなんざ、な」  鼻唄まじりの長身が踊るように風に乗り、山の斜面を野猿《やえん》さながら翔《か》けて、みるみる闇に呑まれた。  奈良の正倉院には、聖武帝の歿後その冥福を祈って、光明皇后が東大寺に奉献した莫大な宝物が納められているが、南倉《なんそう》階下の、南棚の中央に置かれた檜《ひのき》製の箱は、『彩絵花鳥唐櫃《さいえかちようからびつ》』と呼ばれ、中には勅書、任符など公験《くげん》のほかに、奴婢見来帳《ぬひけんらいちよう》が一冊入れてある。  記載によれば「大宅可是麻呂献上ノ賤《せん》、黒刀自女」は右の耳たぶと顎の左下に黒子《ほくろ》を持っていたらしい。黒君の項には「年三。印无《しるしなし》。天平勝宝二年ヲ以テ死去」と書かれ、奴《やつこ》浄水については「年十八。黒刀自女ノ子ナリ」とあるのみで、母子の終りはつまびらかでない。 鄭兄弟《ていきようだい》     一  沢を中《なか》ばまでくだりかけて、 「なんだろう?」  |鄭黄※《ていこうれい》は足をとめた。山腹にこだまする異様な声を聞いたのだ。  左手で黄※はふとい竹筒《たけづつ》をにぎり、右手は近くの木に突っぱって、かろうじて身体をささえていた。そうしなければのめり落ちてしまいそうなほど谷は深く、崖の傾斜は切り立っている。 「おおい、|白※《はくれい》……」  不安になって弟を呼んでみた。返事はない。山はもと通り、静まりかえったままだ。 「とにかくいそいで水を汲んでこよう」  身体を動かしかけた瞬間、また、ぶきみな咆哮《ほうこう》がひびき、その余韻《よいん》にかさなって、 「兄さアーん」  白※の、悲鳴に近い声が流れた。遠い、かすかな叫びだが、調子のただならなさに黄※はぎょっとして、 「どうしたア、弟……」  すぐ、引き返そうとした。斜面はしかし、鼻をこすりそうに急だし、灌木《かんぼく》や雑草がからまり茂って、気はせいてもはかがゆかない。 「いつのまにか、ずいぶんくだって来ていたんだな」  しゃにむに、それでもよじ登って、やっと崖上の道に出たとき、黄※の手足は茨《いばら》のかき傷だらけとなり、水入れの竹筒さえいつのまにか紛失してしまっていた。 「白※ッ、どこだ?」  さっき休んだ道ばたに、荷物は置いてある。そのくせ弟の姿は見えない。 「おいッ、どこへ行ったッ、白※ッ」 「ここだよ兄さん……」  声のしたほうへ走りかけたとき、灰色の跳躍が視野をよぎった。 「わッ」  黄※は棒立ちになった。狼だ。道のわきの、栂《つが》の原生林へ白※は逃げこみ、うちの一本によじのぼっている。いまにもずり落ちそうな、不器用なしがみつき方である。 「ばかッ、もっと上へあがれ、枝に足をからめろッ」  その兄めがけて、とっさにこれだけはつかんで逃げたのだろう、白※は杖を投げてよこした。五尺に余る樫《かし》の白木《しらき》で、中には刃が仕込んである。道中の危険を懸念して父が持たせてくれたたった一つの武器だ。  抜くと、恐怖が消えてしまった。 「畜生ッ、畜生ッ」  灰色のかたまりの中へ黄※はとびこみ、めちゃめちゃに切先《きつさき》を振り回した。草を鳴らして、その頭上を狼はかすめる。前後、左右を乱れ走る……。敏捷《びんしよう》さは目にもとまらない。五匹か、十匹か、数も判然しない。森のくらがりに、ただ無数の、まっ青な眼光が明滅する。低い唸《うな》り声もぐるりに迫る。 「ああッ、兄さん、うしろだッ、横にもッ」  木の上で白※が泣き声をたて、葉が身もだえを伝えてガサガサ揺れた。 「やっつけてやる、だいじょうぶだ、心配するなッ」  黄※はでも、武術を知らない。法も技《わざ》もなく、相手の飛び交しに釣られて、やたらと仕込み杖をうごかすだけである。  狡猾《こうかつ》な獣《けもの》はたちまちこの、黄※の弱点を看破した。くみしやすしと見てとると、刃物のきらめきにも大声の脅《おど》しにも、まったく怯《ひる》まなくなり、攻撃はたちまち積極性を加えだした。 「ええい、ちくしょうッ」  啖《く》われてたまるか、狼なんぞに……ここで……こんなところで……。黄※は歯がみする。杖をふるって横なぐりに叩きつける、薙《な》ぎあげる。だがむなしく、刃先は空《くう》を切るばかりだ。  汗で眼がくらんだ。息が詰まった。胸は鼓動で張り裂けそうだ。足ももつれた。沓《くつ》の爪先《つまさき》を草にとられて、彼は前のめりに転倒した。 「しまったッ」  刹那《せつな》、乾いた、けたたましい炸裂《さくれつ》音を耳のはたで聞いた。パーンパーンとつづけざまに音は起こり、黄色い煙と硫黄《いおう》臭が、目や鼻をはげしく刺した。  倒れた黄※めがけて跳《と》びかかろうとした狼どもは、この音響と悪臭におどろいていっせいに逃げ散った。 「助かったッ」  黄※は跳ね立った。五、六本もあたりには矢が落ちている。先端に布がくくりつけられ、それらはまだ、ぶすぶすいぶりながら、さかんに煙を吹きあげていた。     二  小脇に弓をかいこみ、背に大きな包みをくくりつけて、 「あぶなかったなあ、怪我《けが》はないか?」  森の中へ分けて入って来たのが、骨組みたくましい僧だったのには、思わず目を瞠《みは》った。 (救いの神は猟師だ)  そう信じこんでいたのである。 「ありがとうぞんじます。おかげで命びろいいたしました」 「おぬし一人か?」 「弟がいます」  栂の木を見あげて、 「おりておいで白※、もう安心だよ」  黄※は声を投げた。すべり落ちたも同然な危なかしさで、白※は地上に立ったが、恐怖に足が萎《な》えたか、栂の根方へ腰を落としてしまった。ふだんから青じろい顔は、血のけを失って生きた色もない。唇がぶるぶる慄《ふる》えている。 「こわかったか? かわいそうに……。おれもじつは観念したんだ。お坊さんに助けていただかなかったら、いまごろはやつらの餌じきになっていたところだよ」  僧はこのまに矢柄《やがら》のくすぶりをわらじの底で一本一本踏み消し、焦げた布をこき落として、革紐でたばね直していた。 「すごい威力ですね。硫黄の粉が包んであったんですか?」  寄っていって手伝いながら、黄※はたずねた。 「煙硝《えんしよう》その他、三《み》いろばかり混ぜ合せてある。木や岩に射当てると爆発して、音と煙が出るように工夫したのだ。長安寺の坊主が山歩きのさい持つ獣《けもの》おどしさ」 「それにしてもおどろきました。郷里を発つとき、『金剛山《こんごうせん》は太白《たいはく》山脈中の最高峰だ。人食い虎が出るし、狼や山賊まで群れをつくって徘徊《はいかい》している。くれぐれも用心して越さなければいけない』と家族だの、村の人たちに注意されたのですが、まさか長安寺に行きつく前に、こんなあぶない目にあうとは夢にも思っていませんでした」 「めったにないことだな。——見るとおり、三尺幅かつかつの険阻《けんそ》な道だ。でも寺まではふもとから参詣人が登ってくる。狩人《かりうど》が歩くし、樵《きこり》の姿を見るときもある。野獣の害に遭《あ》うことなど、まず、ないといってよい。虎や狼が出没するのは長安寺から先の山道なのだ」 「なぜ、今日にかぎってこんなところまで出て来たのでしょう」 「わからん、雪に追われはじめたのかなあ。狼にかこまれているおぬしを見つけたときには、わしも目を疑ったよ。弓矢を持っていてよかった」 「長安寺のお坊さんですか?」 「うむ、おぬしらも、どうせ参詣だろう」 「いいえ」  表情にかすかな不安を刷《は》きながら、黄※はだが、きっぱり言った。 「二、三日、お寺に泊まって休息させていただいたあと、いまおっしゃった奥山を抜けて、私たちは未輝里《みきり》へ出るつもりなのです」 「それは大変だ」  あらためて、僧は調べるようなまなざしを兄弟にそそいだ。 「寺から先は難路だぞ。いままでの比ではない」 「里数はでも、たいしたことはないのでしょう?」 「朝、寺を出れば、夕方には未輝里につく」 「がんばって、越えるつもりです」 「なんの用があるのか知らんが、どうしても行くというのなら、この弓矢をやる」 「ほんとうですかッ?」 「ともあれ寺の火のそばで、今夜はゆっくり手足をのばせ。野宿をつづけてここまで来たのだろう?」 「赤壁江《せきへきこう》の、いちばん上流の集落で泊まって以来、屋根の下には寝ていません」 「案内しよう。寺はもう、遠くはない」  先に立って僧は道へおりた。 「さあ、お立ち白※、行くんだよ」  あいかわらず栂の根もとにうずくまったきり、白※はだが、動こうとしない。右足のくるぶしをおさえて眉をしかめている。 「どうした、くじいたのか?」 「木に登るとき筋をたがえたらしい。夢中だったけど……今になってずきずき痛みだした」 「おぶってやるさ、つかまれよ」  兄は十九、弟は十七——。二歳しか年に開きはないが、華奢《きやしや》づくりの白※にくらべると黄※は背丈も肉づきも、ぐんと高く、たくましい。村の餓鬼《がき》大将にいじめられて泣いて帰る弟にかわって、かたき討ちの一戦をいどむのも、子供のころから黄※の得手《えて》ときまっていた。 「おおい、はやくしろ、日がくれるぞ」  道に立ってどなる僧へ、 「いま行きますッ」  負けない大声を黄※も返し、弟の背に旅嚢《りよのう》をむすびつけると、その身体を、 「よいしょ」  荷ごと背負って、枯れ草を蹴ちらしながら森を走り出た。     三  西の峰に日が隠れたせいか、まわりの山の半ばまでが投影を受けて暗くなり、谷道はそろそろ夕靄《もや》の底に沈みはじめていた。  頭上の空は、しかしじゅうぶんまだ、午後の明るさをたたえ、残照をななめに浴びて屹立《きつりつ》している行く手、三方の峰のいただきも紅葉にいろどられて、山腹から谷へかけての日かげの部分と、きわだってあざやかな明暗の対照を描きだしている。  谷が深く、谷をかこむ峰々がまた、あまりにも高くそばだっているため、日没直前のはなやぎに満ちた空は、限られた狭さしか仰ぐことができないけれども、白銀《しろがね》を薄く削《そ》いで嵌《は》めた淡さで、いつのまにかその空の片すみに、夕月が姿をあらわし、すこしずつ輝きを増しはじめていた。 「静かですねえ。たったいま、狼相手に演じた悪戦苦闘が嘘のようですよ」 「日雀《ひがら》かな? ……いや、鵯《ひよ》だ。ねぐらへもどる小鳥のさえずりのほか、もの音ひとつ聞こえないなあ」 「こんな人里はなれた山の奥に新羅朝《しらぎちよう》のむかし建立《こんりゆう》された大寺院など、本当にあるんでしょうか?」 「はははは、あるからこそ、おれも住む」 「なんだか信じられません」 「その目が、いやでも今に見るさ」 「修行僧は、たくさんおられるのですか?」 「寺僕までいれて約百人かな。それに時おり参詣人のお籠《こも》りが加わるし、おぬしらのように次の山越えにそなえて、骨休めしていく宿泊者も、たまにはある。……いまも半月ほど前から慶州の事審官が、一族従者二十人もの同勢で参籠《さんろう》しているよ」 「へええ、そんなえらいお役人が?」 「ちょっとした集落ぐらいの頭かずが、山の中にあつまっている。ふしぎといえばふしぎだな」  僧の言葉が終るか終らないうちだった。崖の腹を巻きかげんに沢を離れてすこしずつ登りかかっていた道が、不意に坂の真上《まうえ》に抜けた。 「やあ」  そのとたん、いきなり眼下に展《ひら》けた仏域《ぶついき》——。  峡谷の、岸の一方を切りひらいて、方一町にもおよぶ白土《はくど》の塁壁《るいへき》をめぐらし、法堂・宝塔・経蔵・大講堂・廻廊・僧房など大小さまざまな建物が、青緑《せいりよく》の屋根瓦《がわら》、丹《に》の太柱《ふとばしら》を並べつらねている中に、うす紫の靄をすかして灯籠《とうろう》の小さな灯《あかり》さえ星さながら、きらめいていたのであった。 「どうだ長安寺。まさしく出現したろうが……」 「夢です、まるで……」  黄※は叫び、白※はまして、凶猛な獣の襲撃におびえきったあとでもあり、感じやすい日ごろの気性をむき出しに、 「うつくしい! 寂光浄土の荘厳とも私たちの目には映《うつ》ります」  兄の肩越しに手をさしのべ、涙を流した。 「そうでもないさ。俗塵をいくら離れても、人の住む地上は地上。しょせん浄土にはほど遠い。葛藤《かつとう》もあれば反目もおこる。村や町なかと、たいして変りばえはしないよ」  言いすてて、あとは山門まで一直線のだらだら坂を、僧は大股にくだりだした。  背は、さほど高くはないが、濃い眉、するどい眼光……。こりこりと固そうな、肉のもりあがった肩に、いが栗あたまにつづく太い頸《くび》を、丸太さながらグイッとはめこんだ三十がらみの、したたかな面《つら》がまえの男であった。     四  門前の渓流には石の橋がかけ渡してある。伽藍《がらん》の偉容につり合った堂々たる欄干《らんかん》つきの反り橋だ。  境内はくまなく掃き清められ、かすかに香《こう》の薫《かお》りが流れるほか、冷んやりと大気まで澄み凍《こお》って人の気配はどこにもない。  僧は慣れた顔で、 「こっちだ、こっちだ」  鄭兄弟をみちびき、鐘楼のうしろ側へ廻り込んだ。  厨房《ちゆうぼう》らしい。うまそうな煮炊きの匂いにまじって、高窓から吹き出る湯気、ものを刻む音など生活に結びついたざわめきが、はじめてここには感じられた。  地べたに蓆《むしろ》をひろげ、戸口から洩れる明りをたよりに、なにやら名もしれぬ茸《きのこ》の虫くいを二人の僧が撰《え》りわけていたが、 「や、聡範《そうはん》、お帰り」  うちの一人が声をかけてきた。 「ただいま。おそくなった」 「つれがいるな。参籠者か?」 「泊まり客だよ」  どさッと肩の荷を戸口におろして、 「おいで。宿坊はこの先だ」  僧はいま一つ奥の棟《むね》へ、兄弟をみちびいた。  切り石を漆喰《しつくい》でかためたうすぐらい小房《こべや》がならび、出入り口に面した片側には石廊がのびて、深い土庇《どびさし》を、これも石の円柱がところどころ支えている。 「ここならうるさくないだろう」  やがて、僧はとある房の前に立ちどまって中を指さした。 「おぬしら、この部屋を使うがいい。事審官の一行とは、すこし離れているから……」  なるほど鍵《かぎ》の手に折れ曲った石廊の円柱越しに、灯《ひ》のついた窓が幾つか見え、俗体の出はいりがチラチラするが、だいぶ遠い。 「あなたさま、聡範さまとおっしゃるのですか?」 「うむ。厨房係りの味噌すり坊主さ」 「申しおくれました。私は鄭黄※といいます。こちらは弟の白※です」 「わしになど名のりは無用だが、綱所《こうしよ》の宿泊者名簿には、その通り書いてもらわねばならん。生まれ里、年齢もな。寺の規則だ」 「かしこまりました」 「どちらか一人、綱所まで来てくれ」  聡範の背について黄※が出て行き、このまに白※は兄と自分の旅嚢《りよのう》を、あの仕込み杖も一緒に部屋の中へ運び入れた。  正面の壁に石でたたんだ暖炉がはめこまれ、薪《まき》の束や燃し木、火打ち石まで添えて積んである。そのほかには粗末な木製の寝台と戸棚しかない殺風景な部屋だが、さすがに寺院らしく壁の一方に、梵字《ぼんじ》と菩薩《ぼさつ》像を浮き彫りした二|聯《れん》の板塔婆《とうば》がさがって、ただ一つ装飾の役をはたしていた。  鼻の穴を煤《すす》でいぶした童子が、このとき燭台を持って、ぬうっとはいってきた。 「ありがとう。……水場《みずば》はどこですか?」 「厨《くりや》のわきです」  ぶっきらぼうに童子は教えた。 「あと半刻ほどすると魚板《ぎよばん》が鳴ります。夕食の知らせですから、遅れないように食堂《じきどう》へ集まってください。庭をつっきって向かいの建物です」  ぼくり、ぼくり、木沓《きぐつ》を鳴らしながら、言うだけ言ってまた、ぬうっと出てゆく。  白※は旅嚢をかきまわして手巾《しゆきん》をさがすと、これも、まだ痛む右足をかばいかばい童子のあとを追って外へ出た。気温はぐんぐんさがりはじめている。ぷうんと、どこかで木犀《もくせい》が匂った。  ——水場はすぐ、みつかった。  見るからに頑丈そうな石の井桁《いげた》が組まれていた。湧《わ》き水ではない。厨房の裏の崖から太い竹樋《たけどい》をひいて、泉の水をまんまんと溢《あふ》らせた水舟《みずぶね》なのである。  近よりかけて、白※はためらった。水場には人が二人いた。それも、一人は女であった。  腰から下は薄い絹裳《きぬも》にかくれているけれども、上半身、女はむき出していた。つややかな黒髪を高くゆいあげ、翡翠《ひすい》か、|琅※《ろうかん》か、髷《まげ》の根を碧《あお》い珠でとめているのが、動くたびに蛍火いろに燃えた。  足音に、耳ざとく振り向いて、 「どうぞ」  恥かしがるふうもなく、女は白※をうながした。そして眼を、これはおそらく召使にちがいない、足もとにうずくまっている老人に移して、 「もっと強くこすれないのか? 松脂《まつやに》じゃないか」  男のような口ぶりで叱りつけた。厨から湯を運ばせているらしい。うつむきかげんなうなじが湯気ににじんで、夕闇《やみ》に咲き残る芙蓉《ふよう》の花のように、ほの白く浮いて見える。  白※はおずおず石舟に歩み寄った。目をやるまいとして横を向くほど、花びら色の乳くびをツンとそらした形のよい胸のふくらみが、視線の隅にはいってきそうなのだ。彼はどぎまぎし、赧《あか》くなった。  化粧の香料か肌の香《か》か、息のぬくもりまでちかぢか感じるほど洗い場はせまい。できれば白※も上から下まですっぱりぬいで、狼騒ぎにねばつく汗を気持よく洗い流したかったが、とても今は、それどころではない当惑にせきたてられた。  手足のよごれだけを、ほんの申しわけに落として、そそくさ行きかけるうしろから、 「足を曳きずっているのね。生まれつき?」  女が声をかけてきた。きびきびと歯ぎれのよい、驕《おご》った口のききかたである。 「木のぼりして、筋《すじ》を痛めたのです」 「薬はあるの?」 「持ってます」 「どうせ効きもしない売薬でしょ。あとで私の部屋へ取りにいらっしゃい。打ち身・くじきの妙薬があるから……」  むっとして、 「けっこうです」  にべもなく白※はことわった。どうせ事審官の縁者かなにかだろうが、なんて小なまいきなやつだろうと、むかむか腹が立った。女も同様なのか、 「なにさ、その言いかた! 人がせっかく親切に言ってやっているのに……」  姉さんぶって、高びしゃに決めつけてきた。そのくせ十六かせいぜい十七……。白※とはおっつかっつの小娘なのである。     五  宿坊へもどってみると黄※も綱所《こうしよ》から帰って来ていて、備えつけの藁《わら》ぶとんを、これも寺の貸与品らしい麻袋にぎゅうぎゅう押しこみながら寝床づくりに奮闘中だった。 「身体、洗ってきたんだな。おれも行ってこよう」  肘《ひじ》で横ざまに、黄※は額の汗をこすった。 「お待ちよ兄さん、今はだめだ。いやな女が水場にいるもの」 「女? ここは寺だぜ」 「事審官の一行だよ、きっと」 「それにしてもよく登ってきたな。狼の出るこんな山の中まで、女の足で……」 「男おんなみたいなやつだからね。山道なんぞ平気だったんだろ」 「なにか言ったのか、癪《しやく》にさわることでも……」 「おれの足を見て、薬をくれるというんだ」 「ありがたいじゃないか。貰っとけばいいのに……」 「口のききかたが傲慢《ごうまん》なんだよ。まるで自分のとこの奉公人にでも言うような調子なんだ」 「お前は秀才だけに、神経がこまかいからなあ。そこが、いいとこなんだが……」 「よしてくれ。その、秀才呼ばわりだけは……」 「ほらほら、ふくれた。でも、ほんとに秀才なんだもの仕方がないさ」  黄※は目をほそめる。この弟が、黄※はいとしくてならなかった。自慢の種でもあった。 (鄭兄弟は頭がいい、ずばぬけて明晰《めいせき》だ、将来郷党《きようとう》の声望を担って、かならず出世するだろうと村の人たちや、今日まで二人を指導してくれた高城《こうじよう》の私学の先生は褒《ほ》めそやすけれど、正直いって兄のおれより、すべての学問に、弟は二歩も三歩もぬきん出ている)  そう、黄※は淡白に自認している。  弟の、田舎育ちには似合わないひき緊った、端正な容貌、品のよい、ほっそりとした身体つき、内気な、おとなしい態度——それはいいが、ともなって持っている虚弱体質、むきな、一途《いちず》な、なにごとにもピリピリ反応しすぎる性格までを、 (秀才の証拠だ)  日ごろ、誇ってやまない黄※なのである。 「とにかく水場へ行ってくるよ。女なんぞ、かまうことはない。身体じゅう汗でべとべとして気持わるいんだ」 「おっぱいを、むき出しているんだよ」 「ひゃあ、その、女がかい?」 「うん。恥しらずなあばずれなんだ」 「けっこうけっこう。ついでに拝《おが》んでくるさ。おっぱいも……」  手巾をうけとって黄※が戸口へ近づいた出合いがしら、 「ここだッ、この部屋だッ」  咽喉《のど》いっぱいな喚《わめ》き声と一緒によろけこんできたのは、あの、水場で女の足を洗っていた老僕であった。 「返せッ、返してくれッ」  黄※の袍《ほう》の袖へしがみついて、やみくもに叫びたてる……。 「だれだいあんた。返せって、何を返すんだね」  とまどって、相手の痩《や》せしなびた肩を黄※はゆすぶった。人違いに気づいたのか、 「ああ、お前さんじゃないッ」  逆上しきった眼を老人はキョトキョトあたりへただよわせていたが、 「そうだ、こっちの若い衆だったッ」  いきなりこんどは、白※の胸へむしゃぶりついてきた。     六 「頼む、後生だから返してくれ、さもないとわしの落度になってしまう。若いの、お願いだッ」  老僕の、骨ばった両手で衿を掴まれ、哀訴されて、 「なにを言うんだ。やみくもにただ、返せ返せって……。ちっともわけがわからないじゃないか」  白※も、呆気《あつけ》にとられた顔つきだった。 「とぼけないでくれ。なあ若い衆、ほんの出来ごころだろ? それにきまっている。咎《とが》めやしないよ。返してさえくれればいいんだ。頼むッ、頼むッ」 「なんだって!?」  みるみる白※の顔は青澄んだ。 「じゃあ、なにか無くなって、盗みの疑いをおれにかけているわけだな」 「姪御《めいご》さまの指輪だ。金の台に、紅玉《こうぎよく》と琥珀《こはく》がはめこんである高価な宝ものなんだ。失いましたでは、すまないお品なんだよ」 「ばかッ」  すがりついている相手の身体を、白※は、その老いも弱腰も、念頭におかない容赦《ようしや》のなさで力いっぱい突きとばした。 「知るもんか指輪なんぞ。むやみなことを言うと許さないぞッ」  老僕も、しかし死もの狂いの血相で、 「でも、でも、水場へきたのはお前さんだけだ。お召しものといっしょに井桁《いげた》の石の上に置いといたのが、無くなってしまったのだから……きまってる。お前さんが盗《と》ったんだ。隠したんだ。出してくれッ、さあ、お願いだから出してくれッ」  涙声を振りしぼった。 「わかったよ、おじいさん」  見かねて、黄※が割ってはいった。 「そういういきさつなら疑うのも無理じゃないけど、弟は融通のきかない潔癖屋でね。ひとの持ちものに手をかけるような人間じゃないんだ」 「お前さんは兄貴か?」 「うん」 「兄が弟をかばって何を言ったからって、本気になんぞできるものか」 「そりゃそうだ。では念のために、おれたちの荷物から身体から、気がすむまで調べてみてくれ」  さっさと黄※は衣服をぬいだ。 「おい白※、お前も裸になれよ」 「なるとも」  白※も身につけているものをかなぐりすてて、下帯ひとつのすっぱだかになった。 「さあ調べて見ろッ」  片はしから、床《ゆか》にたたきつける……。  その、兄弟の衣類へ老僕は飛びつき、手をわななかせながら探り廻った。  白※は戸棚から二個の旅嚢《りよのう》も引きずり出した。紐《ひも》をほどいて相手の鼻さきへ、手早く中身をぶちまけた。着替え、雨具、簡単な煮炊きの道具などが、音をたてて床いっぱいに散乱した。どれも質素な、兄弟の生活のつつましさを証《あかし》する品ばかりだが、ひとつひとつ郷里の母が、縫ったり包んだりして持たせてくれたものなのである。  ささくれだった老僕の手が、無遠慮にそれらを掻《か》きさぐるたびに、屈辱と怒りに白※は身体中をはげしく慄《ふる》わせた。 「ああ、ないッ、ないッ」  老僕は呻《うめ》いた。 「あるもんか。盗みもしないものがあってたまるかッ」  彼が歯がみして叫んだとき、部屋の入り口に、ちらッと翡翠《かわせみ》でもかすめ飛ぶに似た彩《いろど》りが動いて、 「そうよ、あるもんですか。荷物などいくら振《ふ》るったって出やしないわ。ばかばかしい。おやめったら……」  あの、水場にいた少女が、老僕に口こごとを浴びせながらはいってきた。  いつのまにか、ちゃんと上着を着て、その上にさらに、錦《にしき》でふち取りした唐衣《からぎぬ》をかさねている。ひきずるばかり床《ゆか》になびいているのは淡紅色の薄絹の領巾《ひれ》だ。  わざと、兄弟の存在を無視して、 「お前も、よくよくのまぬけだね。隠そうと思えばあんな小さな指輪ひとつ、どこにだって隠せるんだよ。お前なんぞに捜されてすぐ見つかるようなとこに、だれが置いとくものかね」  男っぽい、きびきびした言葉つきで少女は老僕をきめつけた。     七 「待て、きさま、そんならどうしてもおれたちを盗人扱いにする気なんだなッ」  ののしる白※へ、じろっとはじめてきついまなざしをくれて、 「あんたたちを盗人だときめてやしないわ」  少女はうそぶいた。 「ただね、その気になれば指輪の一つ二つ、灰の中、藁《わら》の中、胃ぶくろの中にだって一時、隠すことぐらいできるってことを、このまぬけじじいに教えてやっているのよ」 「ちきしょうッ」  鬢《びん》の毛を、白※は掻きむしった。 「どうしたらいいんだ、どうしたらこいつに、おれの無実を証明できるんだッ」 「まあ落ちつけよ弟」  黄※がなだめた。 「疑われたこっちも災難だが、大切な宝ものを紛失したこの人も、災難なんだ。迷惑はおたがいだよ。気を鎮《しず》めて、納得ゆくまで探してもらおうじゃないか。そのほかに手はないよ」 「さすがに兄貴だけあって役者が上ね。胆《きも》がすわってるわ」 「だって、あんただって乗りかかった舟だろう?」  少女の、冴《さ》えかえった美貌に気押《けお》されながらも黄※は持ちまえの線のふとさで、にやっと笑った。 「疑いは、はらしたほうがさっぱりするよ。疑ったほうも、疑われたほうもね」 「いいのよ、もう……」  くちびるの端に、少女も浅い笑いをうかべて言った。 「あんな指輪、惜しかないわ。やめろと言うのをきかないでこの老いぼれがのぼせて、あんたたちの部屋に駆けこんじまったんだ。自分のしくじりを、ごまかそうと思ってね」 「ですが姪御《めいご》さま……」 「うるさいッ、お前が着物を渡すはずみに、あの深い水ぶねの底に落としちまったかもしれないんだよッ」 「そうだな」  黄※はうなずいた。 「そういう失策もありうるな。あんた、慶州事審官の姪なのか」 「金玉蓮」 「ご威光|風《かぜ》が吹かせる身分だ。召使から寺の坊主から、総動員して井戸|渫《さら》いしたらいいと思うね」 「だめだよ兄さん」  白※がさえぎった。 「その前に、灰の中、藁の中、腹の中、おれたちのほうを徹底的に調べてもらおうじゃないか」 「それもそうだ。井戸から出なければ、疑いはまた、こっちにかかってくるわけだからな。……でも、腹の中身がはっきりするのは、あすの朝だぜ。手っとりばやく下剤でも飲むか。ははは」 「つけあがったことを言うわね。どこを探そうと私の勝手よ。あんたたちの指図は受けないわ。もうあんな指輪、いらないと言ってるのがわからないの?」  かんばしった声に、負けない大声で白※も叫んだ。 「そっちがいいと言ったって、濡れぎぬを着っぱなしではこっちが承知できないんだ。はっきり決着をつけてもらおう。そしてもし、白黒《しろくろ》が判然したら、事審官の姪だろうとなんだろうと許しゃしないぞ。あやまらせてやるからなッ」 「えらい剣幕ね、あとで引っこみがつかなくなっても知らないわよ」 「まあまあまあ、そう両方とも興奮するなよ。こんな山の中の古寺に、おなじ日に泊まり合せたのもなにかの縁じゃないか」  取りなす黄※の声を中途でぶち切って、このときけたたましく魚板《ぎよばん》が鳴りだした。ガンガン、ガンガン、ガンガンと夜気をふるわせて響きわたる音に、 「夕食の知らせだ」  昂《たか》ぶりを一ッ気に醒《さ》まされた顔で、白※はこんどはあわてだした。 「さっき童子が念を押していったよ。合図があったらすぐ、集まれって……。遅れちゃいけないって……」 「寺は規則がきびしいからな」  少女を、黄※はうながした。 「聞くとおりだ。——ええっと、金……玉蓮さんか。喧嘩《けんか》は一時おあずけにして、一緒に腹ごしらえでもしないか」  その誘いには返事もせずに、 「行けッ」  いきなり足をあげて、這いつくばっている老僕の腰を、金玉蓮はうしろから思いきり蹴とばした。悲鳴をあげて、老僕は戸口へのめった。 「行け、行けッ」  と、細《こま》かい刺繍《ししゆう》のある女沓《ぐつ》の先で、よろめく相手を蹴りつけ蹴りつけ石廊の一方へ去って行くのを、 「まったくだなあ弟、お前の言うとおり、男おんなみたいなやつだぜ」  あきれて、黄※は見送っていた。     八  食堂《じきどう》は湯気と煮ものの匂いに温くけむって、鄭兄弟のしこった身心を、ほぐすように包みこんでくれた。  大卓が、ほそながく幾列にも並べられ、入り口のあちこちからはいってきた僧たちで席はずんずん埋められてゆく……。 「いやあ、見わたすかぎり坊主頭だ。どこにこれだけの人数がひそんでいたんだろ」  ささやく声よりも、黄※のぐうぐう鳴る腹の音のほうが大きかった。  参籠《さんろう》者・宿泊者のための卓子は壁に添っていちばん端にあった。混雑をかき分けて二人がそこへたどりついたとき、事審官の一行にすでに上席はほとんど占領されていて、奉公人どものさらに下座に、五つ六つ空《あ》きが残っているだけだった。  そんなことに頓着《とんじやく》しない黄※は、人みしりのつよい弟のぶんまでひっくるめたつもりか、 「やあ、みなさん、こんばんは。新入りです。二、三日、ご一緒します。よろしく」  だれへともなく、ぺこりと頭をさげて、頑丈いっぽうの粗末な椅子に、いきおいよく腰をおろした。  正面、上座が事審官らしい。白髯《はくぜん》を胸まで垂らした老人である。尊大な一|瞥《べつ》をチラッと投げてよこしたきり、むろん挨拶など返しはしない。  その左右に居流れているのは扈従《こしよう》の役人たちにちがいない。彼らも、ある者は無作法な目でこちらをながめ、ある者は無関心に自分らの話に興じているだけで、会釈ひとつしようとはしなかった。  兄弟のすぐ近くに窮屈そうに椅子を並べている下人たちが、それも、上座をはばかった声で、 「われわれこそ、よろしく」  頭をさげたにすぎない。  事審官の右どなりが二つ空席になっていたが、やがてどこからか金玉蓮がはいって来て、その一つに坐った。寄りそってあらわれたのは二十七、八に見える色じろの、美々しい身なりをした青年である。かっぷくのよい上体を、こころもちかがめて老事審官に挨拶し、そばの官人たちへも愛想のよい笑顔を見せながら玉蓮のとなりの椅子に腰をかけた。  厨房《ちゆうぼう》に通じる重そうな樫《かし》の扉がそのときあいて、あの、狼の襲撃から鄭兄弟を救ってくれた聡範《そうはん》を先頭に、炊事係りの僧や童子たちが手に手に大|鍋《なべ》・木鉢《ばち》・杓子《しやくし》などを持って繰《く》りこんで来た。  がちゃがちゃ、がちゃがちゃ、やかましい音が湧きおこる。あらかじめ一人前ずつ卓上にかさねてあった食器類を、ひとびとが並べだしたのだ。兄弟も、いそいでそれにならった。  慣れた手つきで汁が分けられる。菜《さい》が配られ飯も配られた。汁は実《み》だくさんの茸汁《きのこじる》、菜は蓮根《れんこん》に芋の炒《いた》め煮……。それに水菜《みずな》の、塩からい漬けものを添えただけの精進だが、煮ものも汁も飯までが、湯気を吹きあげるほど熱くしてあるのがありがたい。  鳴りつづけの腹をもてあまして、 「さっそく、では、いただくとするか」  箸《はし》を取りかける黄※を、 「まだだよ兄さん、だれもまだ、手を出してはいないじゃないか」  白※が狼狽《ろうばい》してとめた。  なるほど、布袋《ほてい》ぶとりの長老が出てきた。壁の一方を背にして目をとじ、飯の鉢を両手で捧げると、きいきい声をふりしぼって、 「展鉢《てんぱつ》の偈《げ》ーッ」  音頭をとるのに合せて、僧たちも宿泊者も、いっせいに鉢を持った。 「仏生迦毘羅《ぶつしようかびら》、成道摩掲陀《じようどうまかだ》、説法波羅奈《せつぽうはらな》、|入滅拘※羅《にゆうめつくちら》……」  吠えるような経文の合唱が、天井をゆるがす。なにを言っているのか兄弟の耳にはさっぱり理解できない。ひとのする通り真似《まね》をして鉢をささげながら、目ばかりきょろきょろ動かしている……。やっと終ったと思ったら、こんどは、 「生飯《さんぱん》の偈ーッ」  ときた。 「汝等鬼神衆《じてんきじんしゆう》、我今施汝供《ごこんすじきゆう》、此食遍十方《すじへんじほう》、一切鬼神供《いしきじんきゆう》……」  これもちんぷんかんぷんだ。飯をひとつまみ、卓上に置く理由を、 「餓鬼《がき》に供養するのだそうですよ」  事審官の召使の一人が、そっと教えてくれた。兄弟よりも、半月も前から参籠している彼らのほうが、寺の生活には一日の長がある。 「へええ、餓鬼にねえ。こっちの腹こそ餓鬼並《な》みなんだけどなあ」  やっと終了……。おあずけをくったせいもあって食事はやたらうまかった。 「ことにこの汁が逸品だぜ白※。なんという名の茸だろう。見たこともないな」  とにかくおいしい。夢中でかっこんでいるのを上座から見やって、玉蓮と隣席の青年がくすくす笑っているのに、兄弟はやがて気づいた。 「おえらがたも召使の奴隷《どれい》も、おなじ献立を一つ卓上で食わされる公平さが、寺のいいところだ。なあ」  聞こえよがしに黄※は言い、 「失礼なやつらじゃないか。おかしいことなんぞ、どこにあるんだ」  憎しみに燃える目で、白※は二人を睨んだ。     九  その食事も、そろそろ終りかけたころ、空《から》鍋をかついで引きあげたはずの炊事係りの童子が、あたふた、また厨房から飛び出して来て、長老の耳になにごとか告げた。 「な、なんじゃと? 首くくり?」  大声に、だれもがおどろいて箸をとめた。 「事審官どの、そこもとの召しつれた下人じゃそうな。たったいま、厨房の裏手で首くくって果てたよしにござりますぞ」  老事審官は、しかし長老の驚愕《きようがく》とはうらはらに、無感動な、しごく面倒くさげな口ぶりで、 「頭かずをしらべてみろ」  卓の中ほどにいる一人に命じた。  おそらく、召使の長《おさ》であろう、立ちあがって、すばやく下座へ視線を走らせたが、 「玉蓮さま附きの、孫《そん》という下僕が見あたりません」  さすがに、ひと目で言いあてた。 「あの、じいさんだよ兄さん」  白※はおろおろささやいた。 「指輪の紛失を苦にやんで死んだんだ。きまってるよ」 「そういえば、はじめから食卓には見えなかったな」 「どうしよう」 「うむ」 「じいさんは、おれが盗んでうまうま隠した、もう指輪は出っこないと思い詰めて、絶望したんじゃないだろうか」 「金玉蓮に、おどかされたのかもしれないよ。指輪はみつかっても、きさまの失態はまぬがれない、下山したら銅山の水汲み人足にたたき売ってやるとか何とか、おじけづくような懲《こ》らされかたをして、世をはかなんだとも考えられるぜ」 「あ、召使どもが立って行く……」 「おれたちも行ってみよう」  ひとびとの背について兄弟は食堂《じきどう》を飛び出した。  中庭は暮れきって闇《やみ》に近い。釣り灯籠のほのあかりをたよりに石廊を走って、厨房の裏側へ廻りこむと、そこには夜空に枝をひろげて楡《にれ》の大樹がしげり、松明《たいまつ》がいくつか集まっていた。 「どこだどこだ」 「あすこだ、ほら、あの枝に……」 「年寄りのくせに、ずいぶん高いところまで登ったじゃないか孫《そん》じいさん、かわいそうになあ」  奉公人仲間の口ぶりには同情があふれている。指輪事件は彼らの早耳に、もう伝わっていたらしい。  手に手にさしあげる松明の不安定な光の輪のなかに、ぼろ布さながら揺れているのは、まさしく老僕の亡骸《なきがら》であった。むしゃぶりつかれたおりの、骨ばった手の感触は兄弟の腕や肩に、まだ、なまなまと残っている……。 「それなのに、じいさんの生《い》き身《み》は、もうこの世のどこにもいない。ね、呆気《あつけ》なさすぎるじゃないか、儚《はかな》すぎるじゃないか兄さん」  白※の悶《もだ》えを、うしろから奪って、 「じいさんばかりじゃないさ」  声をかけてきたのは炊事係りの聡範だった。 「にんげん一寸《いつすん》先は、王侯にだってわからない。今朝《けさ》がた孫じいさんは厨《くりや》へ来て、菜っぱ洗いを手伝ってくれながら、晩めしの茸汁をあれこれ話題にしてたっけ……。このときはまさか、楽しみにしていた汁も食わずに死ぬことになろうなどとは思っていなかったろう」  よごれた鍋釜を聡範はかかえていた。それを洗うつもりか、言うだけ言って水場へ去って行くのと入れちがいに、召使の長がやってきて、 「いつまで吊《つ》りさげておく気だ。とっととおろさんか」  楡の木を見あげてどなった。そそくさ、一人が木によじのぼり、一人が下へまわって死体を抱きとめた。  玉蓮も、例の青年に手をとられながら食後の散歩のように顔を見せた。 「気の小さいおいぼれねえ。早のみこみの死に急ぎときてるんだから……」  ながながと地面へ伸びた老人の骸《むくろ》へ、冷笑ぎみに彼女が浴びせたとき、水場へ行ったはずの聡範が、 「おい、娘さん」  大股に引き返してきた。 「お前さん、紛失ものをしたそうだが、これじゃないのか?」  ポタポタ水をしたたらす右|掌《て》の、肉厚《にくあつ》なくぼみの底に、やはり水に濡れて輝いていたのは大粒の宝石をはめこんだ金の指輪であった。     十 「ああ、これよ。どこで見つけたの?」 「水場の溝《みぞ》だ。水の落ち口にひっかかっていたんだ」  このやりとりを、黙って聞いている白※ではなかった。つかつか寄って行って、 「あやまれッ」  玉蓮へ迫った。 「泥棒の汚名をひとに着せたんだ。地べたに手を突いてあやまれッ」  青年が、玉蓮の背後から進み出て、 「かわりにおれが詫《わ》びよう。それで勘弁してやってくれ」  気さくな調子で言った。 「あんたはだれだ?」 「東北面兵馬使《とうほくめんへいばし》、金景博《きんけいはく》——。玉蓮さんの婚約者だ。やがて夫になる男が、女房にかわって詫びるわけさ。折れ合ってくれていいだろう?」  権位にある者特有の、底冷たさ傲慢《ごうまん》さが、表情にも態度にも小憎らしくにじみでているが、ものの言いぶりは案外にさばさばして、どことなく人なつこくさえあった。 「いたみいります。もうそれで充分です」  黄※が口ばやに応じた。そして、ふくれっつらの弟と、横を向いたまま形のよいくくり顎《あご》をツンとそらしている玉蓮のあいだを、へだてるように、 「行こう行こう、部屋へもどろうや。な? 白※」  その背を押しまくって帰って来てしまった。 「兄さん、思いのほか弱虫だなあ。東北面兵馬使がなんだ、そんなにこわいのか?」  藁ぶとんにひっくり返りながらも、白※は不平そうに八ツ当りをやめなかった。 「お前こそ、喧嘩に弱い痩せっぽちのくせに、気ばかりむやみと強いからこまるよ。いいか、考えてみろ」  負けずに黄※もまくしたてた。 「事審官といえば、戸長・副戸長・郷吏・雑吏の任免をつかさどる、いわば慶州の実質上の支配者だぜ。血統からいったって金一族は、かつての新羅《しらぎ》貴族だ。高麗《こうらい》王朝に降《くだ》ってからも代々その厚遇をうけて、半島いちばんの富州といわれる慶州の治政《ちせい》をまかされている家柄じゃないか。あの若い東北面兵馬使も、おなじ姓を名乗るからには事審官の縁者だろう。貴族も賤民《せんみん》も、仏の慈眼の前には平等と見る寺の中だからこそ、おれたちもやつらと対等の口がきけるんだよ。郷里の村でだったら這いつくばったって追いつきゃしない。向こうに落度があったにせよ、ともかくも身分ちがいの高官に詫びを言わせたんだ。もうそれで、よしとしなければいけないよ」  ……寝るにはまだ、はやすぎた。  老僕の孫《そん》にかき回された荷物を、もとどおり片づけ終ったあとは、かくべつすることもない秋の夜長である。  黄※は旅日誌をつけだし、白※は寝台に腰をおろして、くるぶしの腫《は》れへ薬を塗りはじめた。 「あの玉蓮って女、捻挫《ねんざ》や打ち身によくきく妙薬があるって言ったっけ……」 「そうそう、そうだったね。貰ってきてやろうか?」 「まっぴらだよ。あいつのお恵みなんか、だれが受けるもんか」 「ははは、まだ腹をたてているのか? 執念ぶかいなあ」  手燭《てしよく》のゆらぎといっしょに、このとき、 「ごめん。邪魔していいか」  戸口に立ったのは聡範だった。五合ははいりそうな素焼きの瓶《へい》をさげている。 「黍《きび》酒だ。寒さしのぎに少しふるまおうと思ってな」  すでに五、六杯ひっかけてきたらしい。毛虫|眉《まゆ》の下で、目がぎょろっと血走って見えた。     十一  火は暖炉に、いきおいよく燃えていた。 「さ、どうぞはいってください。私たちも退屈していたところなんです」  つけかけの旅日誌をとじて、黄※は聡範を炉のそばへ招じ入れた。  さげてきた黍酒の瓶を、ぬくもった灰の中へ無雑作に突っこみながら、 「孫じいさんは可哀そうなことをしたなあ」  毛虫眉を、聡範は腹だたしげにしかめた。 「おれが言ったとおりだろう。山奥に俗塵を絶って、清浄結界の霊域《れいいき》をかたちづくっているはずの寺ですら、人がすこし集まれば、やれ盗みの嫌疑だ首くくりだと、とたんに揉《も》めだすのだから始末にわるい」 「まったくですね。しょせん地上に、浄土や仏国は望めないということでしょうか」 「地上にではなく、人の心に、さ」  上にはおった鈍色《にびいろ》の偏衫《へんさん》。下からのぞくやぶれた裙子《くんし》……。あいかわらず粗末な僧衣のふところから、欠け椀を三つ、それに焙《あぶ》った椎《しい》の実をひとつかみ取り出すと、 「食わんか?」  兄弟にすすめ、自分も抛り込むように聡範は口へ入れはじめた。  どこかでこのとき、打ち鉦《がね》の澄んだ哀音《あいおん》が起こり、ひくい読経の声が流れはじめた。 「事審官の召使どもが、じいさんの通夜《つや》をしてやっているんだ」  聡範が説明した。 「私たちも経でも手《た》向けましょうか」 「よせよせ、つまらん。無に還ってしまった死者に、なにがわかる。いまさら千万巻、経を読んだからって死んだ者には一|厘《りん》一|毫《ごう》、何も加わりゃしないんだ。供養などというものは、すべて生きてる側の心やりだよ」  瓶の口から、ほかほか湯気が立ちはじめた。引きぬいて灰をかき落とすと、 「ひとつどうだ? あたたまるぞ」  三つの椀へ、聡範は黍酒をつぎ分けた。 「いただきます。いい匂いですね」  と手にとって、 「おい白※、お前も飲んでみろ、ひと口……」  弟を、黄※は見かえった。足をひきひき白※も炉のそばへ出てくる……。 「おぬしら、生まれはどこだい?」 「溟《めい》州です。三日浦《さんじつぽ》に近い鏡里《きようり》という村からやって来ました」 「すると霧在嶺《むざいれい》の峠を越えたわけか」 「あのへんも難儀な道でしたよ。でも晴天にめぐまれつづけましたし、それに紅葉《もみじ》のうつくしさが……」 「うん。ちょうど見ごろだ。内《うち》金剛・外《そと》金剛とも、名物は霧と紅葉というほどだからな」 「ここへくる道々、申しあげたように、また、これからも山越しして未輝里《みきり》へぬけるつもりなのですが……」 「目的地は、では未輝里か」 「いいえ、未輝里から長端《ちようたん》へ出て、高麗《こうらい》の首都、開城府へ……」 「ほ、都へ? なにしに?」  黄※は口ごもった。が、すぐ、 「科挙《かきよ》を受けに行くんです。兄弟二人で……」  明朗に答えた。 「科挙? 官吏の登庸《とうよう》試験か。するとおぬしら、身分は良民というわけだな」 「良民は、かろうじて良民ですけど、ほとんど賤民すれすれの水呑み百姓ですよ」 「なるほど」 「田舎の実情はひどいものです。きまった租税や力役《りきえき》のほかにもなんだかだ、取り立てがはげしくて……。よっぽど無理をしなければ勉学などするひまもありません」 「くらしに窮した良民が、身を売って奴隷になるなど、ざらだろう」 「そうなんです。そのほうがむしろ気楽な場合もあるのですが、賤民に身を堕《おと》すことは、科挙を受ける資格を失うことでもありますからね。それが口惜《くや》しさに弟も私も、老いた父や母までが汗水たらしてがんばってきたんです」 「官吏になることが、しかし、そんなにいいことかなあ」 「だって、疫病《えきびよう》ははやるし飢饉《ききん》はつづくし……田舎のみじめさの中に身を置いていると、人間、生まれたからには、なんとか今すこし、ましな生活にとりつかなきゃ嘘《うそ》だとつくづく思いたくなりますよ」  一杯の黍酒に、耳の裏まで李《すもも》のように赧《あか》くして、黄※はやや饒舌《じようぜつ》になっていた。 「官吏がよくて、なるわけじゃないけど、われわれのような貧乏人にまで公平に、科挙制度という登竜門がひらかれているのは官界だけですからね」 「おぬしらの年ごろには、おれも同じような望みに燃えていた。そして科挙を受けたのだった」 「えッ? あなたも科挙を!?」  兄弟は左右から、思わず聡範のあぐらの膝へ身体を寄せ合った。     十二 「受けたよ。合格した。従七品官《じゆうしちぼんかん》に任ぜられてな。妻もめとった」 「なぜ、その身分を捨てて……」 「坊主になどなってしまったかと、訊きたいのか?」  椎の実の殻を、聡範は炉の火へはたき落とした。パチパチと火の粉が炸《はぜ》た。 「青くさい理由からさ。上役の不正を糺弾《きゆうだん》したんだ。官界というところはな、腐りきった古沼だよ」 「それで憎まれて、逐《お》われたわけですか」 「逐われたのは相手だ」 「勝ったんですね」 「勝った気はしなかった。ほんとうに勝つとは、どういうことなのか、事件を契機に考え詰めるようになった。人に勝つ自分に勝つ、いっさいに勝つ。いまもそれを思い詰めながら、この寺の厨房で味噌《みそ》を摺《す》っている。ははは、愚《おろか》に聞こえるだろう、おぬしらの耳には……」 「そんなことはありません。一つの、それも力いっぱいな生き方でしょうから……」 「やめよう、おれのことはおれの問題だ。ひとにかかわりなどありはしない。それよりおぬしら、科挙を受けに行くからには、だれか、しかるべき要路の添え状は持っているのだろうな」 「添え状?」 「推薦状だよ」 「持っていません。そんなもの一通も……」 「そいつはちょっと……無謀じゃないか?」  聡範の真顔《まがお》に、兄弟はせきこんで、 「いるのですか? 添え状などが……」  声をつつぬかせた。 「おれたちのころから実力は二の次だった。ものを言ったのは縁故を頼っての情実だったよ。おそらくげんざい、堕落ぶりはもっと進んでいるのではないかな」 「どうしよう兄さん」  白※はひきつったように叫んだ。 「国家のおこなう試験に、そんな裏があるなんて……。高城《こうじよう》の私学の先生はすこしも教えてくれなかったね」 「中央の実情に暗いんだ。おれたち同様……」 「縁故が幅《はば》をきかす世界ならば、賄賂《わいろ》ということも考えられるだろう? 裸《はだか》一貫のおれたちの割りこむせきなどあるだろうか」 「まあ待て、落ちつけ二人とも……」  聡範が言った。 「こりゃあ一番、知恵をしぼる必要がありそうだぞ」 「考えても、無駄です。私たちには持ち出してものをいう添え状など、書いて貰える知り合いは一人もいやしません」 「絶望するのは早い」  薪《まき》をつかんで聡範は炉の中をかき回した。炎がくずれ、三つの影法師が壁いっぱいに揺れた。 「おぬしら、あの声が聞こえるか?」  夜気を縫って、あいかわらず、かすかな通夜の打ち鉦の音と読経の声が流れていた。 「ひとつ屋根の下に、慶州の事審官が泊まっているという事実を、まさか忘れてやしまいな」 「老事審官に、添え状を書いて貰えとおっしゃるのですか?」 「それは出来ない相談だ。が、あの若い東北面兵馬使なら攻め落とせないことはないだろう」 「とても駄目です」  身もだえて、白※は呻《うめ》いた。 「私は金景博をあやまらせました。許婚者《いいなずけ》のあの、高慢な娘と口論までしてしまいました。彼らは憎んでいますよわれわれを」 「たとえ憎しみでも、何のひっかかりも無いよりはましじゃないか」 「…………」 「孤立無援のおぬしらが、貴族高官と、どういう偶然であれ口がきけたというのは一つの機会だよ。みすみす見送る手はない。おれが頼んでやる。口をきいてやるよ」 「お願いします聡範さん」  熱心に、黄※は言った。 「私もいっしょに懇望します。金景博の足もとに手をつかえて、頼みぬいてみます」 「そこまで卑屈になることはないさ。やつらは思いちがいして盗みの濡れぎぬをおぬしらに着せたんだ。水場の溝から指輪を見つけ出してやったのもこの、おれだぜ。借りは向こうにあるんだよ」 「でも、それだけで縁もゆかりもない私らのために、添え状を書けなどといっても……」 「むろん、おいそれと承知はしっこない。困難きわまる仕事だが、当って砕けるほかないだろう」  魚板《ぎよばん》が鳴り出した。消灯の時間であった。 「ともかく、あすのことだ」  空《から》の瓶子《へいし》と椀をひとまとめにふところへ捻《ね》じこむと、 「狼さわぎ指輪さわぎ……。めまぐるしい一日だったな。疲れたろう。今夜はゆっくりおやすみ」  言いすてて、聡範はすばやく部屋を出て行った。     十三  おやすみといわれても、寝られるものではなかった。湧きおこる不安がひっきりなしに兄弟の胸を掻き乱した。 「くやしいなあ、ちきしょう」  闇の中で、白※は幾度も寝がえりを打った。 「こんどのこの、科挙のために、血のにじむ努力をつづけてきたおれたちじゃないか。両親や村の人たちの期待に送られて、いよいよ都へのぼろうといういま、推薦状などという思いもよらない障害にぶつかるなんて……」 「書いてくれるだろうか金景博は……」  黄※の心配は、もっぱらその一点にかかっていた。 「さほど悪い感じの男でもなかったが、あの金玉蓮が横槍を入れそうだな。なにしろ気性の勝った女だからなあ」  それでもさすがに疲労に負けて、とろとろ眠りこんだ明け方ちかく、 「おい、起きろッ」  聡範の声に、二人はあわただしく呼び醒《さ》まされた。 「事審官の一行が、つい今しがた出発して行ったぞッ」 「えッ? なぜまた、いきなり……」 「都でなにか、事が起こったらしい。帰国を命じる国王からの急使が夜中に到着したのだ。黍酒に酔って熟睡してしまったおかげで、出発のごたごたにおれは気づかなかったが、ほんの四半時《しはんどき》ほど前だという」 「道は?」 「おぬしら同様、山越えして未輝里へ出、開城府に向かうと言っていたそうだ」 「追いかけます。そして是《ぜ》が非《ひ》でも、中途で金景博をつかまえます」 「手はずが狂った。おれの口から頼んでやりたかったが……こうなったら、自力でぶつかるほかないな」 「そうします」 「すぐ、仕度にかかれ。宿泊変更の断《ことわ》りは、おれが代りに庫司《くす》へ言ってきてやる」  着替えをし旅嚢《りよのう》をくくり、手ばやく身仕度をととのえているまに、胡桃粥《くるみがゆ》の熱いのを聡範は運んできてくれた。 「さあ、朝めしと弁当だ。狼おどしの弓矢もあげよう。持って行くがいい」 「すみません、なにからなにまで……」 「礼などいいが……待てよ、あの雲……」  白《しら》みかかった空の一方へ窓越しに目をやって、聡範は気づかわしげに唸《うな》った。 「東の峰にあの笠《かさ》雲があらわれると、夕方にはかならず降るぞ」 「雨具は持ってます。それに夕方なら、未輝里まで二、三里のところに漕ぎつけているはずでしょうから……」 「それもそうだ。止《と》めまい。ただしくれぐれも気をつけて歩けよ。連中の踏み跡がはっきり残っているはずだ。あとをたどって行くがいい。沢へはおりるなよ。迷いこんだらこんりんざい、出られないそうだからな」 「お世話になりました」 「くじけるな。望みを捨てるんじゃないぞ」  門前の反り橋まで、聡範は送ってきた。 「さようならあ」  声に、手を振って応《こた》えてくれた姿が、木立にさえぎられて見えなくなり、つづら折りの山道の最初の山ひだに、長安寺の全景もぬぐい去ったように隠れてしまうと、兄弟はまた、故郷を出たときそのままの二人きりにもどった。 「難路とは聞いていたけど、なるほど、ひどい道だなあ」  それでも正午《ひる》までに、かれこれ五里は来たろうか。 「瀬の音だ。白※、飯にしようよ」  肩荷をおろしかけたとたんに、とほうもない嚔《くしやみ》が出た。 「なんという冷気だろう。水のそばだというばかりではないらしい」  あわてて木の枝ごしに見あげた空が、いつのまにか古綿《ふるわた》を重ねたように曇ってきていたのである。 「いけない、聡範さんの予言どおりになったぞ。降り出さないうちに急ごう」  心づくしの弁当を、ほとんど呑みこむように食べ終ると、二人はふたたび歩きはじめた。  しかしそれからは、道などとは世辞にもいえない悪路の連続だった。大岩をくぐったり朽木《くちき》をまたいだり、目もくらむ絶壁の腹を、藤づる編みの桟道《さんどう》にすがって渡るなど、思うようには道はかがゆかない。  召使の背にしろ山|輿《ごし》にしろ、ともあれ女をまじえた老事審官の一行二十名もが、一ッ時《とき》ほど前、同じ道を通ったとはとても信じられない険《けわ》しさだが、注意して見れば、踏みしだかれた道ばたの草、杖にするために折ったにちがいないま新しい枝の折れ口など、多人数が通行したらしい形跡は、たしかにあった。 「やっぱり、この道でいいんだよ、ほら」  連中のだれかが捨てていったと思われる沓《くつ》の片方を、やがて白※は見つけだした。 「ちょうどいいや、おれの左の沓、爪さきがほつれかけているんだ。履《は》き替えていこう」 「およしよ兄さん、そんなの丁吏《ていり》の沓だぜ」  弟の気位《きぐらい》に、 「よしッ、木魂《こだま》にくれちまえッ」  思いきり黄※は、それを谷底へ蹴とばした。  ……ところが十歩も行かないうちに、こんどは頂きを紐《ひも》でくくった|※《あしぎぬ》の冠《かんむり》が落ちているのにぶつかった。 「へんだぞ弟、古沓はまだしも、冠をこんなところに捨てて行く人間はいないはずだよ」  こわごわ見回した目に、沓や冠どころか黄麻《きあさ》の上着に革の胴じめをした男の、血まみれ死体がとびこんできた。 「たいへんだ白※、その笹の中を見ろッ」 「あ、この崖のきわにも……」 「事審官の一行だ、どの顔にもおぼえがある」 「斬り傷《きず》だよ、山賊に襲われたんだッ」 「わあ、ここにも倒れてるッ」  なんのことはない。兄弟は知らぬまに、ぐるりを死人に取り巻かれていたのである。     十四  国王からの召還命令というのも、おびき寄せるために賊の仕掛けた罠《わな》だったのかもしれない。 「とにかく、こんなところに長居は無用だ」  あわてて立ち去りかけた足くびへ、 「たすけて……だれか、来て……」  くるしげな女の声が絡《から》みついた。 「金玉蓮だッ、生きてたんだなッ」  草むら目がけて飛びこみかけた黄※の腕を、 「だめだ、だめだよ兄さん」  つかんだのは白※だった。 「この難所を、手負いをつれて越せるものか。まもなく日が暮れる。雨でも降りだしたら、それこそ共倒れじゃないか」  四、五間離れたやはり草むらから、このとき、こんどは、苦痛にしゃがれた男の声が切れ切れに呼びかけてきた。 「おぬしら……あの兄弟だろ、お、おれだ、金、景博だよ」  兄弟の顔色が変った。景博のあとを追い慕って、ここまで追ってきた自分たちではなかったか。しかも今、相手は重傷を負い、立場の優劣は逆転してしまっている……。 「助けようよ彼を! ね、兄さん、一生に一度の運を、おれたちは掴んだんだ」  手の裏返してせきたてる弟へ、 「待ってくれ、じゃ女は見捨てて行くのか?」  黄※は喘《あえ》いだ。 「お前は非力だ。二人分の荷物だけで精いっぱいだし、おれも背負って行けるのは手負い一人がせいぜいだぞ」 「だから選ぶんだ。男のほうを救うんだよ」 「白※ッ」 「おれは金玉蓮と争った。でも、私怨であの女を見殺しにしようというんじゃないッ」  抑えようとする兄の手を振りきって、白※は草むらに走り込んで行った。 「ああ、き、きてくれたのかッ」  泥まみれの片手を金景博は差し出した。たち割られた袍《ほう》の背は、黄いろい脂肪を見せてまくれあがり、ほとんど全身、青びかりする血糊《ちのり》のかたまりだった。  旅嚢から、ありったけの手巾をとり出すと、白※は怪我《けが》人の傷口をしばった。 「ありがたい、助かったッ、恩に着るよ」  顔じゅうを涙にし、景博は手を合せた。 「黄金か。地位か。おぬしらの望むものを、何なりとおれは約束する。未輝里まででいいんだ。麓《ふもと》についたら村民を走らせて、都城の長官におれの負傷を知らせ、官奴《かんど》をさし向けさせよう。未輝里まで、なんとかつれてくだってくれッ、たのむッ、たのむッ」 「金《かね》も地位もいらない。おれたちは科挙を受けに開城へ行くんだ。推薦状を書くと、約束してくれるか?」 「科挙だって?」  景博は叫んだ。 「そんな必要があるものか。生きて都へ帰れたら、おれはただちにおぬしら二人を官途に推《お》す。信じなければ信じなくてもかまわん。おれはおれ自身に、それを誓うよ」  驕《おご》った、人もなげな口吻《こうふん》はかげをひそめ、この青年が本来、身につけている脆《もろ》さ育ちのよさが、むき出しににじんだ。 「兄さんッ、兄さんッ」  白※に呼び立てられて不決断に、黄※も草むらの中にはいって行った。 「荷はおれが持つよ。さ、重いだろうけど、この人をおぶってあげて……」 「うむ」  まるで鉛《なまり》の袋だった。背にくくりつけ、杖にすがって立ちながら、黄※はよろめいた。 「ま、待って……」  向こうの草むらがガサガサ鳴った。金玉蓮が、これも血みどろの半身をもたげて、 「私も……私もつれていって……」  這《は》ってこようとしていた。剣が使えるらしい。そして戦ったらしい。彼女は武装している……。拐《さら》われなかったかわりに、かえって男と誤られて賊のために斬られたのだろう。  耳を石にして兄弟は草むらを走りおりた。 「あッ、置き去りにしてゆくの? 私をこんなところへ……景博ッ、景博ッ」  死もの狂いの絶叫に、金景博は答えようとしなかった。どころかこれも、必死の語気で、 「めったに人の通らぬ山の中だ。棄てて行ったところでわかりはしない。そのうちに女はこと切れるよ」  火のように黄※の耳にささやいた。  ——五町も行かないうちに、だが恐れていた雨がやってきた。谷底から巻きあげてくる濃霧とまざりあって、雨はみるみる視界をさえぎりはじめた。     十五 「雨具を出せ白※ッ」  黄※はどなった。 「そして怪我人ごとおれの頭へかぶせてくれ」 「縛るよ兄さん」 「ああ、縛れ。お前のも吹きとばされないように、しっかり身体にまといつけろッ」  背中では金景博が、 「すまぬ、すまぬ……」  くり返していたが、それにももう、答えるゆとりはなかった。楔《くさび》型にくぼんだ赭《あか》土の山道はみるみる急流となり、土砂をふくんだ濁水があなどりがたい力で足もとを浚《さら》いはじめた。崖には幾筋もの滝が出現し、しぶきをあげながら頭上に落下してくる。豪雨による深山の変貌の迅《はや》さは、おどろくほどだった。 「白※、すべるなよ」  遅れがちな弟へ声をかけようとして、黄※の視線は、その足もとに釘づけになった。 「お前また、足をひきずりはじめたな」 「腫れはおさまったんだけど、まだすこし痛むんだ。でも、たいしたことはないよ」  金景博を背負っていては、手を貸して支えてやることもできない。 「しっかりしろおぬしも。寝てはだめだぞ」  背中の手負いは、しかし身体じゅうで慄えながら、爪を立てんばかり黄※の首すじにしがみついてくる。寒さと、出血による消耗とで、口がきけなくなっているのだ。  雨具など役に立たず、三人とも、とうに肌着まで、ぐっしょり濡れ透《とお》ってしまっていた。  ……日は、ついに沈んだらしい。忍び寄る暗さとともに、冷気が手足を凍らせはじめた。 (落ちつくんだ。落ちつくんだ)  呪文《じゆもん》のように、黄※は自分へ言い聞かせながら進んだ。  長安寺からの、おおよその時間を計ってみるまでもなく、そろそろ未輝里へ着いていいはずだった。でも、行っても行っても切り立った山腹の闇がつづくばかりで、里に近づいた気配はない。流水に消されて、ややもすると道さえ見失いかけた。  だが、やがてその道が、やっと下りはじめたのである。黄※はほっとして、 「里だッ、里へおりだしたぞッ」  うしろの弟へ呼びかけた。  ——が、やみくもにただ、下るばかりで、道は展《ひら》けてこない。ばかりか、ごうごうと水音が近づき、踏みあとは激流にさえぎられて、いきなり尽きた。 (しまったッ、沢だ! 横道を、見当ちがいな沢へおりて来ていたのだッ)  気づいた刹那《せつな》、黄※の背すじを、まっ黒な恐怖がさっと走った。 (沢へ迷いこんだら出られぬ。こんりんざい……)  聡範の忠告が耳の底でガンガン鳴った。  流れに添って、それでも一、二町、しゃにむに下るうちに、激流の轟音《ごうおん》がふっととだえ、地の底から湧くような、妙に籠《こも》ったひびきに変ったとみるまに、急に目の前に夜空がひらけて、流れは絶壁の突端《とつたん》へ消えた。 「滝だッ、滝の落ち口だ。引き返せッ」  どこをどう歩いたか、それからの二|刻《とき》あまりを、黄※はまったくおぼえていない。  気を張りつめ、無我夢中で、弟をはげまし金景博に声をかけながら、闇と泥濘《ぬかるみ》の中を活路を求めてさまよった記憶の、わずかな断片しか、いまは頭に残っていなかった。  そして、われに返ったときは、また、もとの滝の落ち口に、精も根《こん》もつきはてて倒れている自分たちを見いだしたのである。 「おい、だいじょうぶか?」  背をゆすってみて、黄※はのけぞった。 「死んでいる! 弟ッ、景博は死んでるぞッ」  しかも、その白※さえが、かたわらの岩の上に両手をひろげてうつ伏したきり返事をしないのに、さらに仰天して、 「白※ッ、白※ッ」  兵馬使の死骸をもぎ棄てると、狂ったように弟のそばへ黄※はにじり寄って行った。血の気をなくした弟の顔が、かたく眼をとじたまま黄※の腕の中で、こわれた人形さながら、ぐらぐらかしいだ。 「死んじまうのか、白※こんなところで……」  なみだ声を、黄※は振りしぼった。 「みじめじゃないか、これでは……おれたち、あんまりみじめすぎるじゃないか。運をつかんだのに……せっかく運をつかんだというのに……」  起きあがろうとした。しかしもう、一寸《いつすん》も動けなかった。冷えきった弟の片頬へ、頬を押しあてて、黄※もじっと目をつぶった。  どこかで女の声がしたように思えた。 「玉蓮さん、ゆるしてくれ」  寒さは感じなくなっていたが、揺り籠にでも揺られているような、こころよい眠りがしきりに襲ってきた。父母の笑顔が明滅した。聡範の濃い眉……。それが消えると、金砂を敷きつめた都大路があらわれた。 「王宮だ。大屋根の上に虹《にじ》が出ている。……いや虹じゃない。羽根をひろげた孔雀《くじやく》だ。美しいなあ、さすがに箕子《きし》の旧封だね。おれたち都に……開城府に着いたのだろうか」  語りかけている声は、呻《うめ》きにしかならなかった。弟の身体を、夢うつつに抱きしめかけた腕が、そのまま、ひっそり動かなくなった。  ——折りかさなった鄭兄弟と岩かげに、仰むけざまに倒れた若い貴族の死体へ、横なぐりの雨は翌日も、翌々日も、なお、小止《おや》みなく落ちつづけていた。 本書(単行本)は、一九八四年一一月、文化出版局から刊行され、一九八七年一一月、講談社文庫に収録されました。